031

 落下しようとする知弦の腕を英子は直前でつかんだ。しかし、知弦の身体はすでに宙吊りになっていた。英子の力で知弦を支えるのはきつい。それでも、英子は知弦に死んでほしくなかった。


「離して、高倉さん」

「離しません!」


 英子を見る知弦の目は涙で溢れている。


「私行かなきゃ、沙羅のところに。もう、私だけ幸せになんてなれないよ」

「違うんです!」


 英子は必死になって叫んだ。今までに出したことのないような大きな声で。


「美堂さんのお腹の中には赤ちゃんはなんていなかった。警察の人に確認したから本当です。美堂さんは2人に嘘をついていたんです」

「なんで……?」


 渡にならわかる。しかし、自分にまで嘘を付く理由が知弦にはわからなかった。


「あなたに自分を拒絶してほしかったから!」


 意味が分からない。どうして沙羅が自分を拒絶させる必要があるのか。

 英子は耐えられないのか、顔を真っ赤にしていた。話すのもやっとという感じだ。


「わかんないよ! どうして拒絶しないといけないの?」

「美堂さんはもうあなたの理想になれないと知っていたからです」


 私の理想?


 やはり知弦は理解できない。沙羅は自分にではなく、渡に受け入れてもらいたかったはずだ。


「美堂さんはあなたが渡先生とのことで傷ついていることを知っていた。それでも、あなたは美堂さんを見捨てることが出来なかった。だから、そうやって嘘を付けば、あなたが自分を拒絶して離れてくれると思った」


 英子はとにかく必死だった。息がぜいぜいしている。


「意味わかんないよ……。そんなことをするぐらいなら渡と別れれば……」

「でももう、その時はあなたの知る美堂さんではなくなってた。あなたの好きな美堂さんはいなくなっていたんです……。だから、あなたに拒絶させて、自分から離れさせることが美堂さんがあなたに最後に出来ることだったんです」


 沙羅は馬鹿だと思った。そんなことをして、結局自分に突き落とされて、何もかも失ったら意味がない。自分に理想をかぶせていた人間の事なんてほっといて、沙羅の方から離れれば良かったのだ。もう必要ないとか嫌いだとか近づくなとか言えば、知弦だって離れていた。嘘を付く意味が分からない。


「私は美堂さんの自殺だと思っています。だって、生きたいと思ったらきっと必死にあがいてた。けど、あなたに突き飛ばされたとき、彼女は何の抵抗もしなかった。あなたの行動を見て、死を受け入れたんです。あなたの想いを美堂さんは受け入れた」


 知弦の身体はどんどん下がっていく。掴んでいる英子の手からも大量の汗が流れ、滑っていくのだ。


「だから、美堂さんはあなたに死んでほしいなんて思ってない! 生きてください、喜多原さん!!」

「そんなのもう、遅いよ……」


 知弦は聞こえないような小さな声で呟いた。

 そして、英子の手から知弦の腕が離れ、地面へと落ちていく。




 死ぬ瞬間はスローモーションのように時間が止まるのだと知弦は思った。目の前に見える英子の顔。心配そうに見つめる英子の目には涙が溢れていた。そして、その顔が自分のあの日の顔と重なる。あの日、沙羅もこんな風景を見ていたのかと思った。沙羅はあの時、どんな風に思ったのだろうと想像した時、どうしても自分を憎しみ睨みつけた顔が想像できなくて、いつも自分に向けていた笑顔だけが浮かんだ。





「移動してください!!」


 誰かの叫ぶ声がした。気が付くと、知弦は何か柔らかいものにあたり、その衝撃で少し跳ね上がったが、地面に叩きつけられることはなかった。知弦の目の前にまだ、あの青い空が映っていた。

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