032
事の顛末はこうだ。
あの日、英子が前日に書いておいた暗号の手紙を見て、知弦は化学室に向かった。化学室に鍵がかかっていた事も知っていたので、顧問に会うふりをして、茂田枝の机から鍵を拝借していた。英子は、樹以上の器用さを持つ知弦になら、同じように鍵を盗むことも容易だと考えたのだ。
暗号の内容。『待つ 放課後 化学室』と単語を並べたものだったが、すべてを知る知弦が理解するのはそう難しいことではなかった。そもそも、あの暗号を考えたのは知弦と沙羅の2人。英語の得意な沙羅と数学が得意な知弦の2人のアイディアだった。だから、その暗号を別の人物宛てに使っていたことも、知弦はすぐに理解することが出来た。英子もあんなに傍にいて、沙羅を気にしていた知弦がこの暗号の事を知らないはずはないと思い、英子は半分賭けのつもりであの手紙を知弦に送ったのだった。
そして案の定、知弦は現われた。英子より先に来て、化学室を開け、あの扉を開けた。知弦は英子を待ちながら、あの日の事を思い出していた。そして、あの手紙を送られた時点で、送り主はあの日、何が起こっていたのかを察したのだろうと思っていた。そして、それが樹ではなく英子であることも予想がついていた。
英子の話を冷静に聞けたのは、すでにその覚悟が出来ていたからだ。化学室の扉を開け、その淵に座った時点で、
英子の手から知弦の手が離れる前から、彼女たちの真下のピロティには走高跳用のマットが用意されていた。これを用意したのは樹だ。樹は知弦が落ちてくる場所を予測しながら、仲間を集めて知弦を助けようとした。
樹は渡の事件があった日、英子に関わらないように言われて一度は引き下がったが、やはり気にはなってはいた。英子には半分張本人の姿が見えていた気がしていたので、樹は英子の動向を見張っていたのだ。そして、英子のしようとしたことを理解し、そして知弦のやりそうなことも予期していたのだ。
今、この2人を一番に理解しているのは樹だった。
そうして、知弦は助かった。多少の打撲や擦り傷はあったものの、命に別状はなかった。駆け付けた教師たちによって、知弦は保護される。英子は知弦のしたことを誰にも言わなかった。当然、樹にもそれを言うことはない。
あの日から、知弦が英子の前に現れることはなかった。噂では卒業前に自主退学したとの話もあった。同じく、樹ともあれから口を聞いてはいない。樹もこれ以上、あの事件について探るつもりもなく、自分の中で納得することに決めたのだ。
そして、何事にも動じないマイペースな卯月だけが相変わらず英子のそばにいた。
「美堂先輩もいなくなって、喜多原先輩まで退学しただなんて、本当に淋しいですね」
卯月はわかっているのかいないのか、かわらない調子で話をする。
「でも本当に高倉先輩は大学行かなくていいんですか?」
ずっと気になっていた質問を卯月は英子にする。英子は黙って頷いた。
「勿体ないですよ。高倉先輩、頭いいのに」
残念がる卯月の前で唸りながら英子は答えた。
「いいんだよ。入学した時から大学に行くつもりなかったし」
「でも、ここは進学校ですよ?」
「だって、進学校の方が1人でいても目立たなそうだったから」
英子は高校に入った時点で、友達を作るつもりはなかった。しかし、低レベルな学校の方が、浮いた者を排除しようとする心理が強くなる。進学校では入学早々難関校を受けるために、あまり人と交わらない人も珍しくない。英子は余計なことで煩わしさを感じたくなかったのだ。
あの事件のおかげで漆野高校は評判を落としていた。化学室の外開きドアは完全に固定され、鍵がないと開かない使用になり、化学室もまた常に職員室の管理箱へ保管されることとなった。
結局、沙羅の転落が他殺だったのか、知弦の無意識の行動による事故だったのか、それともすべてを受け入れた沙羅の自殺だったのか英子にはわからない。しかしながら、彼女のあの嘘が知弦と渡の運命を変えてしまった。誰もが憧れる才色兼備の女子学生は、周りの理想と偶像の中に置かれ、本当に幸せだったのだろうか。そして、彼女が英子に言った言葉の意味を英子まだわかりかねていた。
私はこの事件の出来事と、彼女の落ちていく光景を永遠に忘れることはないだろう…。私の記憶の中で、落下していく彼女の表情は無念ではなく、快諾であったからだ。
女王蜂の嘘 佳岡花音 @yoshioka_kanoko
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