021

 ついに予備校に乗り込む日がやってきた。事前に樹から渡されたのは、予備校の冬期講習受講の申し込み用紙だった。つまり、受講する意思を見せて、校内の見学の許可をもらおうとしていた。樹に限っては、冬期講習だけでなく、その後の入校も視野に入れた見学だ。すでに保護者の印までもらっている。英子はこの抜かりのない樹にいつも感心させられていた。


 そこは多くのライバルである予備校が並ぶ場所だった。建物の前には学生が大勢行き来していて、初めてきた英子は圧倒されていた。

 樹はためらいもなく校内に入っていく。英子は隠れるようにして樹について行った。実際は樹の方が年下なのだが、こういう時は本当に頼りになった。

 2人はカウンターの前に立って受付の女性に声をかけた。樹が冬期講習に興味があって来たことを伝え、どの予備校に入ろうか悩んでいることも告げた。なので入校手続きの前に校内を見学させてほしいと頼んでいた。受付の女性は、当日限定の授業参加が出来るなどと案内をしていた。その案内の間に、英子は席を外し、校内を回ることにした。一度入り込んでしまえば、制服を着ている限り目立つことはない。また、運がいい事なのか大人しい系の英子は予備校によくマッチしていた。

 英子はまず、2階の教室を見て回った。授業はまだ始まっていないらしく、教室内では友達同士で会話している生徒や勉強に勤しむ生徒など様々いた。制服も多種あり、いろんな学校から通ってきているのがわかる。

 すると突然、誰かが英子の名前を呼んだ。驚きのあまり、英子の肩が大きく跳ね上がる。振り返ってみると、そこには元放送部副部長の知弦が立っていた。英子があまりに驚いているので、知弦もまずい事でもしたのかと戸惑ていた。


「こんばんわ、喜多原さん…」


 ひとまず英子は知弦にぎこちない挨拶する。知弦も少し複雑な気持ちだ。


「もしかして、高倉さんも予備校ここに通うの? 3年のこの時期って珍しいね」


 そう、すでに3年の終盤を迎えようとしている今、3年生はラストスパートなのだ。この時期に入ってくる生徒はだいたい他の予備校や塾からの編入が多い。


「ううん。とりあえず冬期講習だけでも受けようかなって悩んでて。喜多原さんは前からこの予備校に通っているの?」

「うん。そっかぁ。私は知り合いなら誰でもウェルカムだけどね。私が通い出したのは3年になる前かなぁ。ちょうど去年の今頃だったかも」


 知弦は顎に手を当てて思い出していた。知弦は英子にとって数少ない話しやすい相手だ。同じように話せる卯月とはまた別のタイプだった。


「そういえば、ここって美堂さんも通ってたって……」


 ああと事情を理解した知弦は少しだけテンションを下げる。


「うん。沙羅は私より先に通ってたよ。実際は、親が勝手に決めたみたいだけど。私もどこかの予備校には通うつもりだったから、それなら知り合いがいるところがいいかなってここにしたんだ」


 やはり沙羅と結弦は親友ということもあって仲がいい。どちらかというと知弦が沙羅に合わせている傾向が強いようだが。


「それとね、ここにいる数学講師の先生が教え方うまいっていう評判を聞いたのもあるけどね。知ってる? その人、もともとうちのOBだったらしいよ」


 英子ははっと顔を上げた。もしかしたら、その人が卯月が話していた男性かもしれない。


「その先生って、どんな人?」

「どんな人って…、女子には人気が高い人だけど。背も高いし、細身だし、声も渋いよね。年齢も若いみたいだよ。確か、宅間先生と同級生だって…」

「それ、なんていう先生!?」


 英子はつい前のめりになって聞いてしまった。突然の事で結弦も驚いている。


都野守とのもり……、なんだっけ大貴だいき? それがどうしたの?」


 英子は必死になって誤魔化そうとした。


「えっと、この前うちの学校に来ていたみたいで、皆がイケメンっていうからどんな人かなぁって興味があって」


 知弦はふぅんと疑うように見ていた。英子がイケメンに興味があるなんて思っていなかったからだ。


「都野守先生ね。確かに、教えるのうまいよ。うちの渡なんかよりずっと。OBならいっそううちの数学教師になってくれてたら良かったのに……。都野守先生は冷静だし、決断力もちゃんとあるし、彼がモテるのはわかるんだけどね。高倉さんがああいうのに興味あるなんて初めて知った」


 英子は誤魔化して笑うしかなかった。するとチャイムが校内に響き渡った。


「ごめん、高倉さん! 私、教室戻んなきゃだから」


 知弦はそう言って、走って教室に戻っていった。英子は慌てて女子トイレに逃げ込む。このまま教室の前にいたら、今からやってくる講師たちに見つかってしまうからだ。


 トイレに逃げ込むとすぐに樹にメールを送った。樹はまだ受付の女性に入会の手続きなどを聞いているようだった。樹は予備校の教員らに話を聞いて、情報を聞き出す予定だった。

 ひとまずメールを送り、講師が教室に入ったことを見計らって、英子は自習室のある1番上の教室に向かった。その会は、人気が少なく、授業の始まったこの時間に自習するものは数人しかいない。英子は自習室を覗いた後、その奥にある薄暗い教室に向かう。卯月の噂によれば、沙羅はよくそこで講師にマンツーマンで指導を受けていたらしいからだ。もし、2人が付き合っていたとしたら、何か証拠が出てくるかもしれないと思い、教室を探ることにした。


 英子は音を立てないようにゆっくり扉を開ける。中は薄暗かったが何とか目が慣れてくれば見れる程度だった。その中で、英子は1つ1つ机の中や教壇の中など細かく見て回っていた。すると、1つの机の中にノートを切った切れ端が出てきた。それをそっと開けるとわけのわからない暗号のようなものが出てきた。英子は首をかしげていると、いつの間にか英子の後ろに誰かが立っていて、彼女の肩を掴んだ。




 その頃、樹は受付の女性の説明を終え、応接室に案内されていた。入校の可能性が高いと思ってそれなりの職員を呼んでくるつもりらしい。さすが民間の企業の対応の早さには感心した。

 受付の女性がお茶を出してきた数分後、いかにもお偉いさんと言った中年の太ったスーツ姿の男が現れた。樹は席を立って挨拶をする。男も丁寧に挨拶し、名刺を渡した。どうやらこの予備校の営業担当の部長らしかった。男は冊子などの資料を出しながら、他校よりもこちらが優れて入るということを懸命にアピールしていた。おそらく樹が他の予備校にも興味を持っていると受付の女性から聞いたからだろう。


「実はこちらにいる数学講師の先生の評判を聞いて来たんです。僕は5科目の中でも数学が1番苦手だから克服したくて。えっと、お名前はなんでしたっけ?」

「都野守講師ですかな。そうですね。彼は大変評判がいいです。教え方もそうですが、とても教育熱心な人でしてね、生徒たちの自習にもよく付き合ってるんですよ」


 樹はやはりと男の話を聞いて思った。名前は都野守。樹は頭にメモしていく。


「その講師の方に関しては、美堂沙羅さんっていう方に教えてもらったんですよ。覚えていますか? 先日事故で亡くなった」


 はいと男は残念そうな表情をして見せる。


「大変残念です。彼女は我が校でも大変優秀で、全国模試でも上位に残る成績をおさめておりました。第一希望の東帝医大にも合格圏内でしたし、受験には問題ないかと。わからないところは積極的に講師へ質問もしておりましたし、勉強熱心である印象を受けてましたね」

「それでは都野守講師にも質問によく来ていたんですか?」

「はい。彼女も数学に1番力を入れていましたから、よく質問しておりましたね。でもまあ、都野守先生は女子生徒に大変人気がありましたから、彼女以外の生徒にもよく自習室で教えていましたよ」

「自習室というと…」


 男は樹の質問に対し、冊子を取り出し簡単な校内地図を見せて指さしてきた。それは最上階の大部屋の自習室の隣にある小さな自習室だった。


「ここです」

「そうですか…。なら、そこを見学させてもらうことは出来ますか?」

 男は樹の質問の意図がわからず、混乱していた。

 そんな時、ノックの音がして誰かが応接室に入ってきた。長身の少し長めの髪の男だった。


「ああ、都野守先生! 丁度良かった。こちらの学生の方が都野守先生の評判を聞きつけて来られたそうです、それで――」

「そうですか。私も彼には会いたかったんですよ。ぜひ、私が校内を案内しましょう」


 彼はそう言って笑った。樹には悪い予感しかしなかった。

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