024
タクシーが到着した場所はだいぶ想像した場所とは異なっていた。予備校から随分と離れた閑静な場所にある市営住宅だった。彼はそのエレベーターもない建物に早々に入り、階段を上っていく。3階にたどり着くと、長い長い廊下を歩き、中央付近にある扉の前に立った。そして、呼び鈴を鳴らす。部屋の中からジーと音がして、数秒後には扉が開いた。
「おかえりなさい」
そう言って出てきたのは若い女性だった。お腹が大きく妊婦なのがすぐに分かった。彼女は後ろにいる2人を見つけて、驚いていた。
「どういうことなの、大貴さん?」
「この子たちは私の予備校の生徒だ。今日は2人に頼まれて、勉強を個別に教えることになった」
彼は彼女に向かってすらすらと虚言を吐いていた。彼女の方も疑うこともなく頷いて、快く部屋に通してくれた。
部屋の中は随分綺麗だった。都野守は薄手のトレンチコートとスーツを脱いでハンガーにかける。ネクタイを緩めると居間の奥にある窓際の座布団に腰を下ろした。
「君たちも座りたまえ」
彼はそう言って、ちゃぶ台の両サイドにある座布団を指さした。2人は彼の言われるまま、座布団に腰を下ろした。
「あなたたち、もう遅いから、ちゃんと親御さんには連絡するのよ」
彼女は樹たちに優しくそう言って部屋を後にした。2人とも茫然と見ているしかなかった。そして、徐に都野守が話しを始める。
「これが答えだ」
意味も分からず、2人は都野守に振り向いた。
「私には妻がいる。お腹にはもうすぐ生まれる子供もいる。そんな私が美堂の恋人だと思うか?」
「思いません」
樹はハッキリ答えた。
「私はそんなリスクをおかしてまで、生徒とどうこうなるつもりはない。だから、おそらく美堂の恋人は別にいる」
彼は煙草を一本いいかなと2人に聞き、後ろの窓を少し開けて煙草に火をつけた。吐いた煙を窓の外に出す。おそらく妊娠中の妻のためだろう。
「あなたが結婚しているなんて意外でした。しかも、こんな市営住宅に住んでいるだなんて」
樹が答えると、都野守はふっと笑った。
「イメージではもっとこじゃれたマンションに住む孤高の男ってところか。期待に応えられず申し訳ないね」
半分からかうように言った。樹はむっとふくれる。
「つまりだ、笹山少年。人は勝手に相手にイメージを植え付ける生き物なんだ。私が高級マンションに住み、高そうな椅子に座り、一人クラシックでも聞きながら読書なんて想像した生徒もいた。実際は築年数の長い市営マンションの居間で、座布団に座りながら煙草を吸っているのが、本当の私だ」
同じようにと彼はつづけた。
「美堂沙羅も本当はどんな生活をしていたのか我々にはわからない。何を考え、私に難問の数式を訪ねてきたのか。なぜ、彼女が用のあるはずのない化学室に入り浸っていたのか……。それでも君たちは、その本当の事を知ろうとしているのだろう。わざわざ学校から遠い予備校にまで足を運んでだ」
英子は頷いた。樹も遅れて頷く。
「私もね、ずっと美堂沙羅の存在が気になってはいたんだ。別に彼女が美人だとか、成績優秀だとかという意味合いではない。彼女の心の変化だ。彼女はこの2年間であまりに心柄に変動が見られた。最初に比べれば、別人のようにだったよ」
「先生から見て、最初の美堂先輩の印象はどうだったんですか?」
「彼女が入校してきたのは1年の終わり頃。君たちと同じように冬期講習の申込用紙を持ってきて現れた。隣にはいかにも医者の夫人らしい、プライドの高そうな母親が一緒だったよ。彼女はその時は、何一つ話さなくてね。ただただ母親の話す言葉を聞いていた記憶がある。美人で清楚ではあったが、暗いイメージがあったな」
英子は知弦や沙羅の昔を知る人たちの言葉を思い出した。沙羅が暗く大人しいイメージというのは共通した印象だった。そして、3年に知り合った英子はそれを知らないし、おそらく樹も知らないだろう。
「それが2年に上がる前には急に明るくなって、講師に話しかけたり、自発的に挨拶をするようにもなった。それほど目立っていなかった校内でも、一気に注目が集まってね。しかも成績は全国クラス。うちの営業部辺りは当たりを引いたと大喜びだった」
彼はそう言って煙草をふかす。
「私に質問をしに来始めたのもその頃だ。彼女が最も得意だったのは英語で、そして5教科なかでも数学は差ほど得意ではなかった。だから、最初は他の生徒と同じように学校で学ぶ程度の問題の質問をしに来ていた。しかし、みるみるうちに数学の成績が上がっていくと、聞く必要もない専門的な数式を持ってくるようになって、私もどう対処すべきか悩んでいたんだ。しかも彼女は解き方を聞くだけで、答えまで知ろうとはしなかった」
「どういうことですか?」
意味が分からず、樹が聞く。彼は深く頷いた。
「彼女はその数式の解き方を知りたがっただけで、私に答えを聞こうとはしなかった。始めは、自分で解きたいのかと思ったが、いくら待っても彼女からの答え合わせはなかった。彼女は私に数学を教わる必要がなかったのではないかな」
「なのに質問するなんて変じゃないですか?」
まだ納得のいかない樹がぼやくように答える。
「そんな時に見つけたのがこのメモだ。これは彼女が個別で質問しに来た時に見つけたものだ」
彼はそう言って引き出しから、英子の持っているメモと同じようなものを取り出した。そこにはまた別の数字が羅列してあった。
『73 67 73 2 37 53 37 2 5 11』
英子は黙って目を凝らしてみた。
「だから、君のメモを見た時に確信した。こちらの文字は5文字と5文字で表していたからね。このメモ1つではどんな文章か想像しきれなかった。それでだ、君たちはこれらの数字を見て何かを思い出さないかい?」
彼はそう言ってメモ紙をちゃぶ台の中央に置いた。樹は首をひねっている。そして、英子がぼそっと言葉に出した。
「……素数」
英子の言葉を聞いて、都野守は嬉しそうに笑った。
「そうだ。全て素数だ」
「素数!?」
樹は目を皿にしてメモを見る。さてと彼はつづけた。
「1から100の素数はいくつある」
今度は英子に直接質問した。
「25です」
「では25という数字を聞いて、どの文字数だったら表現しやすいと思う?」
英子はうぅんと考えながら答える。
「日本語は五十音。現在の言葉だけにしても47文字あります。25と47では倍近くの違いがある。それに比べてアルファベットは26文字。一文字違い」
「そうこれを仮に足りない文字Zを00もしく1011として表現する。素数は無限に存在するわけだから五十音でも表現は可能だが3桁まで並べるのは読みづらく、賢い選択とは言えないわけだ。しかも100以降の素数を覚えている学生はそういまい」
彼はそう言って、引き出しから手ごろなメモ用紙を出し、樹にペンを貸すように要求した。樹はしぶしぶポケットに仕込んでおいたボールペンを渡す。
「それでは、素数とアルファベットを並べ、一つの表を作るとする」
彼はそう言ってハンドフリーで線を書き、素早く表を書き上げた。
「これを元手に、高倉君の見つけたメモを当てはめてみようか」
都野守から渡されたそのメモを手に、自分のもっていた切れ端を比べてみる。
「I……、MISS YOU。……会いたい」
「正解」
英子の言葉に彼は素早く答えた。そして次に自分の見つけたメモと表の書かれたメモを今度は樹に渡す。そして、樹も負けじと読んでみた。
「えっと、73はUだから……、USUAL PLACE」
「いつもの場所……」
都野守は大きく頷く。
「つまり逢引きの誘いの手紙さ。さて、こんなものをいったい誰に渡そうとしたのだろうかね?」
「素数は、数学? なら、数学教師……」
英子の言葉に樹は瞬時に反応する。
「渡! 渡
言葉に出した樹でさえ驚いていた。以前卯月と話していた時も渡は自然と除外されていたからだ。
そして、都野守も話に加わった。
「実は渡も宅間同様に私とは同級生だった。とても印象の薄い男でね、宅間に言われるまで私は気が付かなかったぐらいだよ。あのOB訪問の日にも彼には一度会っている。気さくで優しそうな男だったよ。意外にもああいうタイプの方が母性本能をくすぐられてもてるのかもしれないな」
彼はそう言って笑う。そして、もう一つ気になっていた都野守のOB訪問について聞いてみることにいた。あのOB訪問がなければ、あの予備校にも訪れていなかったかもしれないのだ。
「都野守先生はなぜ、あの日OB訪問をされていたんですか?」
ああと今まで忘れていたかのように答えた。
「前から宅間には誘われていたんだ。私たちが卒業したころはまだ旧校舎のままでね、ちょうど建設途中だった。せっかく新しい校舎が建て直されたというのに我々だけ残念ながら拝むことすら出来ない。だから、新校舎になってから教員になった宅間に一度遊びに来いと言われていたんだ」
彼はそう言って、灰皿を自分に手繰り寄せ、もみ消した。
「新校舎はどこも打ちっぱなしのコンクリートで生徒の声がよく響いていたな。私たちの頃は当たり前だった引違いではなく、廊下の窓ははめ殺しかルーバーになっていたね。ロッカーもそれぞれに用意されていて、本当に羨ましかったよ。私たち頃はそれはひどいものだったからね。教室の窓も確か回転窓で転落防止対策も出来ているようだったから、いろいろな工夫が見て取れていた。見たところ屋上もなかったようだし、行けたとしても生徒だけでは無理な作りになっていただろうね。それであるのにだ、彼女はあの校舎で転落事故を起こした。数少ない片開き窓の隙間から転落したと聞けば不思議に思ってもおかしくない。普通なら自殺とも考えるだろうが、私にも彼女が自殺する理由が見当たらなかった」
都野守も英子たちと同じ考えに至っていたのだ。つまり、自殺か故意に突き落とした他殺。恋人とその日喧嘩をしたからと言って、あの沙羅が自殺するだろうか。しかも相手が渡ならそうきつい言葉などかけてはいないはずだ。
「しかし、他殺として考えても、自分の密会していた相手を殺すだなんてあまりに滑稽すぎる。私ならおそらくそのような考えにはいたらないね。この事件には謎が多いようだ。君たちのような者が現れても不思議ではなかった」
つまり、少なからずこうやって自分の元に事件について聞きに来る者がいると推測していたということだ。英子と樹は顔を見合わせた。最初から都野守に会えていたら、もっと早く真相にたどり着けたのかもしれない。
しかし、もし沙羅の恋人が渡であったなら、都野守の疑問も解ける。つまり、質問したい相手は都野守ではなく、渡にだったのだ。難しい問題を白紙で持って行っても意味がない。だから解き方だけを彼に教えてもらい、答え合わせを渡としていた。時間稼ぎのためにだ。
「なんで、美堂さんは数学の難問を渡先生に聞く必要があったのでしょう。その難問の解き方の質問は最近までされていたんですよね?」
英子は都野守に質問する。都野守も頷いて見せた。
「ああ、彼女が最後に予備校に来た日も尋ねに来た。その時もいつもと変わらぬ様子でね、楽しそうであったよ」
「そもそも恋人なら一緒にいるために数学の問題なんて解く必要がない」
いやいやと今度は樹が入ってきた。
「いくら密会と言っても見つかった時の言い訳ぐらい必要じゃないですか? そのために質問するふりぐらい必要でしょ?」
「ふりなら難問は必要ないの。試験問題をそれとなく解いておけばいい。つまり、言い訳は周りの人に対してではなく、渡先生に対してだった……」
「どういうことですか?」
樹には英子の考えていることが全く分からず質問する。静かに耳を傾けている都野守の方が理解が早いようだった。
「渡が美堂との密会を望んでいなかったということかな?」
「そうです。恋人のはずなのに、会うことに口実がいるなんてことあるんでしょうか?」
英子にはわからない。恋人どころか好きな人もいなかった自分にそう言った感情は理解できなかった。
「ってことはもしかして、恋人ではなく、一方的に好きだったって可能性があるということですよね?」
樹も頭を捻り出しながら答えた。しかし、それでは沙羅が途中から恋愛に対し、余裕が出始めた理由がわからない。
「例えば、美堂は何かしらの理由で渡との恋が成就したと考えていたが、渡自身は付き合っているという認識はなかったというところかな」
「そんな……」
そんなことはあんまりだと樹は驚愕した。もしそうならあまりに沙羅が不憫でならない。
「ここからは君たちで解決しなさい。しかし、学生の君たちが容易に人の事情に首を突っ込めば、必ず痛い目に合う。下手をすれば、命すら落としかねない。危ないと感じたら、どんなに惜しくとも手を引きなさい。それが私からの最後のアドバイスだ」
彼はそう言って、英子たちを自宅まで車で送ろうと言った。英子たちも荷物をまとめ部屋を後にする。寝室から出てきた奥さんが優しく見送ってくれた。
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