028

 準備室に保健室の女性の先生が英子を向えにいた。英子は先生の顔を見るなり、泣いてしまった。怖かったのだ。強がってはいたがすごく怖かった。殺されるということがここまで恐ろしい事だとは思わなかった。そして、自分たちの甘さを知った。都野守が言うようにこれは途轍もなく危険な世界だった。自分たちが調べていたことで、それに気が付いた不都合な人間がいたっておかしくないのだ。別に英子たちは、隠しれて調べていたわけじゃない。だから、英子たちの行動が渡の耳にも簡単に入って来ただろう。相手も馬鹿ではないはずだ。多くの生徒たちと関わってきた大人の教師なのだ。そんな相手とまともにはり合おうとした、自分たちの愚かさに失望した。


 英子はそのまま保健室へと連れていかれた。英子が落ち着くまでの間、保健室の椅子に座らせてもらい、温かいココアを作ってもらった。英子はココアを両手で持ちながら、中でくるくると回る渦をぼんやりと眺めていた。


 すると、誰かが保健室の開いた扉をノックしてきた。そこに立っていたのは樹だった。樹は複雑な顔をして立っていた。

 英子は樹にあの残酷な真実を伝えるべきか迷っていたが、それ以上に彼に確認しておきたいことが1つあったのだ。

 彼女は彼に近くの椅子に座るように指示した。


 当分の間、2人は黙っていた。樹は保健室に来たのはいいが、話を切り出すことにためらっていた。樹は樹で英子を危険にさらしてしまった事を悔いている。襲われるのが自分ならまだ良かった。何の関係のない英子を巻き込み、傷つけたしまった自分のことが許せなかったのだ。


「笹山君、ありがとね」


 意外な英子の言葉に樹は驚く。英子はただマグカップの中を覗いていた。


「すいません…、俺が目を離したばっかりに」

「うんん。もうあの時にはもう、渡先生にばれてたから、先に手を打たれてたんだよ。私たちの方が甘かった」


 そう言われると弁解する余地がない。寧音や伸隆たちとは違う。相手は大人なのだ。自分たちよりずっと経験値があって賢くてもおかしくない。


「笹山君に1つだけ聞いておきたいことがあるの」


 英子はゆっくりとした口調で樹に質問した。


「美堂さんを突き落としたのは、笹山君じゃないよね?」


 英子は迷いのない真っすぐな目で樹に聞いた。樹はただ黙って英子の目を見ていた。


「笹山君が一度教えてくれたでしょ? 化学室で誰かを待つ美堂さんを見たって。君はある程度知ってたんだよね、美堂さんの行動の秘密。けど、その相手までは誰だかわからなかった。彼女を苦しめていたかもしれないその恋人が誰なのかを知りたくて、私と協力して恋人の正体を追いかけたいた」


 樹は静かに頷いた。英子は優しく笑いかけた。


「笹山君が知りたかったのは、美堂さんの想い人だった。そして、その想い人の渡先生が美堂さんに対してどう思っているのかを知りたかった」


 悔しそうな顔で再び頷く樹。


「なら、もうこの件について手を引いて欲しい」


 英子の言葉で樹は驚いた顔を見せた。


「僕は……」

「笹山君は美堂さんを殺してない」


 英子ははっきりと答えた。そう、樹は沙羅を殺してはなんていない。


「笹山君が美堂さんを殺せるわけない。例え、美堂さんにどんなに好きな人がいても、自分の想いが届かなくても、そのために彼女を死に至らしめたりなんてしない」


 英子はわかっていた。樹がずっと辛そうであったことを。想いを告げられなかったばかりか、いきなり目の前から理由もわからずいなくなったことが悔やまれて仕方がなかったのだ。だからせめて、その恋人の存在を知りたかった気持ちは理解していた。


「笹山君はきっと美堂さんが自殺だって言っても信じないと思う。なら、美堂さんを突き落としたのは渡先生だったって思っていてほしい。それで納得してほしい」

「でも、渡は――」

「自分は殺してないとは言ってた。けど、私を殺そうとした相手だよ。本当は、美堂さんも自分の手で殺していたっておかしくないでしょ?」


 英子はそう思って欲しかった。それで樹に決着をつけて欲しかった。これ以上沙羅の事や渡の事を思い出して苦しんでほしくなかったのだ。

 樹も英子の言おうとしたことはわかっていた。しかし、納得しろと言われて納得できるほど、もう自分は無知ではないと思った。沙羅が自殺だったとか、やはりあれは事故だったとか、そう思えれば楽かもしれない。けれど、そう思うにはもう遅すぎた。

 それでも、英子の優しさが樹は痛いほど伝わる。樹がどれだけこの事件のせいで傷ついて来たのか知っていたから。そして、その痛みを英子は1人で抱え込もうとしていた。


「……ごめんなさい」


 樹はそう言って泣き出した。あの時、教室で沙羅のロッカーの前に立っていた英子を誘い出すべきではなかったと後悔した。自分が声をかけなかったら、彼女はこんなに怖いめにあうことはなかっただろう。


「大丈夫。笹山くんのせいじゃないよ」


 英子はそっと樹の肩に触れる。樹の涙は余計に溢れた。

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