010
樹に連れて来させられたのは、学校から少し離れたファミレスだった。
樹は慣れた様子で夜のファミレスの店内に入り、ウェイトレスに合図を送る。ウェイトレスはそのまま2人を席に案内した。最近では、飲み水や必要なものは自分たちで用意するセルフタイプが主流のようだった。注文もタブレットで行う。
「先輩は先に好きなものを注文してくださいね。僕、水取ってきます」
席に案内されるなり、樹は腰を上げてドリンクバーコーナーに向かった。
英子はこういう場所に慣れていなかった。幼い頃は母親と一緒に来たことも何度かあったが、あの頃と雰囲気も少し変わっていて、友達のいない英子が放課後こうして誰かと食べに来ることもなかった。
ひとまず、タブレットを手に持ってメニューを眺めていた。
「高倉先輩」
名前を呼ばれて、びくりと身体を揺する。そこには水を運んでいた樹が立っていた。
「僕がおごりますから、何でも頼んでください」
英子はじっと目を凝らす。こんな時、どんなものを頼んでいいのかわからなかった。目の前にはハンバーグやステーキ、酢豚や青椒肉絲、冷麺など多種多様なものが並んでいる。おまけにパンケーキやパフェもあった。
ひとまず、英子はドリンクバーを一つ頼んだ。
「遠慮しないでくださいよ。僕、お金だけは持ってるんです」
彼はそう言って鞄の中を探り始めた。
「いつもここで勉強しているんです。家に帰っても居場所ないんで」
英子は樹に目を向ける。樹は一冊のノートを取り出し、机に置く。そして、タブレットを覗き込んで注文をした。
「中学の頃からこんな感じなんで慣れているんですよ。お金だけはくれるんで、夕食はここで好きなもの食べてます。勉強も家より集中できるし、欲しい時に飲み物も飲めるし快適です。不思議と毎日来ると、長居しても店員さんに疎まれなくなるし、ちょっとうるさいぐらいの方が勉強も捗るんですよ」
彼は笑いながら答えた。樹の家庭環境も複雑なようだった。
「気にされてあれやこれや想像されるのも嫌なんで、ここではっきり言っておこうと思うんですが、俺の両親は再婚なんですよ。血が繋がっているのは母親。父親とは他人です。その2人の間には子供がいて、僕の弟になります。今は3人で仲良く暮らしていますよ。だからって、両親が僕を虐待しているとか、家から追い出しているわけじゃなくて、僕の方から提案したんです。勉強に集中したいから、晩御飯は外食にしたいって。塾に通うことも相談されましたが、僕は1人で勉強するほうが捗るんですよ。わからないところは学校で聞けばいいし、ネットで検索してわかることもありますしね」
彼は表情も変えずに淡々と答えた。まるでそこに感情がないようだ。放送室から出る前に言っていた知弦の言葉を思い出す。入学当初、樹は警戒心が強く、近寄りがたい存在だったのだと。もし、それが少なからず家庭に関係していたとしたら、樹はこの数年間で何か吹っ切れることがあったのかもしれない。
2人がドリンクバーを頼んで、お互いが飲みたいものを取ってくると、樹はさっそく机に出しておいたノートを広げて、英子に見せた。そこには、この事件のあらましが細かく書き記してあった。
「もし、美堂先輩が他殺だった場合、噂のストーカーが怪しいと思ったんです。それで、そのストーカーについて少し調べてみました」
樹は指をさし、ノートを見せながら英子に説明する。1人で調べたにしては情報量が多い気がした。
樹が示した1人目のストーカーは
「最初は大したものじゃなかったらしいです。本人の聞こえる場所で悪口を言ったり、悪い噂を広めたり、その程度でした。しかし、そんなことをしたところで美堂先輩の方が信頼も人気も高かったので、逆に美堂さん側の人間から仕返しを受けたらしいです。そこから寧音は孤立し、クラスでもいじめがあったとか…」
こんな嫌がらせは日常茶飯事でどこにでもあることだ。
寧音からすれば、長く付き合っていた気心の知れた彼氏を、突然知らない女に取られたのだ。相手は美人で文句のつけようのない同級生。寧音は何もせずにはいられなかったのだろう。完全に逆恨みだが悪口を言うことで、自分の心を保っていた。それなのに、相手は全く気にしていない様子だった。だから事実ではない噂を流して相手を貶めようとしたが、それが裏目に出て、沙羅側の人間に返り討ちに合ってしまう。
彼女の憎しみは余計強くなっただろう。しかも、これを口実に寧音の方がいじめにあってしまう。集団心理とは怖いものだ。誰もが悪と決めつけた人間に対して、容赦のない攻撃をする。しかも罪の意識もあまり感じていないだろう。いじめっこを逆にいじめ返すこともよくあることだ。
しかし、その寧音の怒りの矛先は誰に向かうのだろうか。それは、最初に攻撃した相手、沙羅だ。しかも、その沙羅が寧音の元彼をフルことで寧音を余計に惨めにさせた。最初は寧音もこんな大事にするつもりはなかったはずだ。
「そこからは先輩のノートをビリビリに破いてゴミ箱に捨てたり、上履きを泥まみれにしたりと拙劣ないじめになっていったんです。当然、そんなのもすぐに田沼の仕業だとばれて、いじめられるだけなんですけど、もう引けなくなっていたんでじょうね。ここまでくると元彼の事とか以前の問題になっています」
だから、刃物を忍ばせていたのかと英子は納得した。英子は沙羅が嫌がらせに合っていたことを知らなかった。そう言ったことがあっても、すぐに助けてくれる人がいたから騒ぎにはならなかったのだろう。けれど、寧音のクラスでは大事になっていた。彼女がエスカレートするのもわかる気がした。これはもう誰の責任でもない。
「それと僕、見ちゃったんです。あの日、先輩が転落した日、4階に田沼がいました。騒ぎが起きるもっと前でしたが、4階の階段から降りてくる彼女の姿を……」
寧音の存在が益々怪しくなってきた。けれど、彼女が降りてきたのが落下の直後でなければ、突き落としたとは思えない。例えば、沙羅が来る前に化学室に何かしら仕掛けをして転落するようにしたか。しかし、それなら警察が気づくはずだと英子は冷静に考える。
「田沼さんは美堂さんがその日、化学室にいるって知っていたのかな?」
「わかりません。けれど、彼女の憎しみが全て先輩に向かっていた以上、昼休みに尾行して知ることは出来たと思います」
そう言えばと英子は思い出した。寧音が化学室の件を知っていたかは知らないが、樹自身は知っていた。寧音が話していたとは思えないし、知弦が話していたとも思えない。樹はどうして知ったのだろうと疑問を感じた。
次にと今度はノートに書いてある小酒井卯月の名前を指さした。
「前にも話したように、小酒井は去年まで在籍していた小酒井
卯月の話をする時、樹は少し機嫌が悪くなる。下駄箱で話した時もそうだったが個人的な恨みでもある話し方だ。
「彼女は田沼とは違い、嫌がらせやものを盗んだりはしなかったのですが、毎日飽きずに先輩の下駄箱に手紙を入れていたそうです。注意してもやめなかったので、次の日から部員の子が先輩の登校する前に処分していました。たぶん、あの5円玉も小酒井の仕業ですよ。あいつはおまじないが趣味みたいなもので、おまじないが完成すると封筒に入れて部室の前に置いていったりするんですよ。本当に迷惑でした」
樹の息が上がっている。興奮している証拠だった。
卯月は2年前の文化祭で沙羅に出会った。最初は姉に誘われて来ただけかもしれない。そして、彼女の美貌と美声に憧れた。実際、彼女の声を録音したものをコレクションしているとか、スマホにデータを入れて休み時間に聞いているという噂もあったらしい。それほど卯月は沙羅に夢中だった。それに対し、沙羅は特に何もしなかったという。むしろ、それを見た卯月の同級生や他の部員が彼女に対し、嫌がらせのようなことをしていた。
話を聞いていると、沙羅が不憫に感じて来た。それは逆恨みされていたからというだけではなく、自分に手を出してくる相手を自分の知らない場所で勝手に他人が制裁を加えていたのだから。そんなことを本当に沙羅は望んでいたのだろうか。それは本当に沙羅のためだったのだろうか。沙羅に対する行為を理由に、彼らこそ憂さ晴らしをしていたのだと思う。その原因が自分だと気が付いた時、沙羅は傷ついたに違いない。彼女の事を思うなら、そうすべきではなかった。
そして気になったのは卯月がなぜ、沙羅の私物置き場や本人の近くにおまじないの封筒を置かずに、わざわざ部室に置いたのだろうか。英子はそれも気になっていた。
実はと重い口を開けるように樹は話した。
「その田沼の元彼、
樹は信じられないという表情だった。英子もにわかに信じがたい。
「その馬嶋が最近、よく4階に足を運んでいたらしいです。だから、先輩と化学室で密会していたのは馬嶋じゃないかって噂になっていて。僕は先輩と馬嶋が密会していたとは思えないです。馬嶋自身評判は良くないので、噂になることも憚られます」
英子も馬嶋の事は少しだけ知っていた。同じクラスではないが、進学校の高校では珍しいほどのやんちゃ者だったからだ。授業のボイコットは当然、教師との喧嘩も始終あった。もめ事を起こす有名人だった。英子は関わりたくないと距離を置いていたため、今まで関わることはなかった。
そして、樹の言うように真面目な沙羅と馬嶋が合うとは思えない。馬嶋が何か弱みを握って脅していたと考えれば別だが。
そこでと樹があることを提案してきた。
「この3人について調べようと思っています。直接こいつらに聞けば何かわかることがあると思うんです」
英子は驚き、珍しく声を上げる。
「ちょっと待って。直接聞くって大丈夫なの?」
英子にはこれら3人に話を聞く勇気などない。
「質問するのは僕がやります。だから、高倉先輩にはついてきて欲しいんです。先輩なら僕より冷静に判断出来そうですから」
樹は胸を張って答える。英子の不安は消えなかった。
「それはいいんだけど、もし誰かが犯人だったら危なくない?」
「先輩はこの3人の中に犯人がいると思いますか?」
逆に聞き返されて英子は黙ってしまった。それはまだわからない。
「外から調べるだけじゃ、これが精いっぱいだったんです。噂なんてあてに出来ないし、これしかないと思って。僕も怖いですが、ある程度の対抗措置は取ろうとは思っています。だから、高倉先輩。お願いです。僕に力を貸してください」
樹はそう言って頭を下げた。英子は断ることも出来ず、しぶしぶ受けることにした。
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