013

 寧音の話を聞いてからというもの、樹は少し落ち込んでいる様子だった。最初は、あんなに積極的に沙羅の事を知ろうとしていたのに、今はあの時の勢いがない。


 しかし、寧音の言葉から気になることが更に出てきた。1つは転落事故の時、寧音の元彼、伸隆が4階に行っていたということ。おそらく、転落時も伸隆は4階に残っていただろう。また、どんな男性に告白されても、相手を傷つけまいとやんわり断ってきた沙羅がなぜか、伸隆にはひどい振り方をしていたのか。それが事実かどうかは、伸隆に確認するしかない。

 そして最後に寧音が言っていた言葉。自分のノートを盗むところを見て、慌てて奪い取る沙羅の行動。話によれば、以前も寧音は沙羅のノートを盗んだことがあった。その時のノートは現国だったか、英語だったかわからないが、その件で騒いでいたという話は聞いていない。もし取り乱していたら、英子も印象に残っていたし、当然親友の知弦も、情報量の多い樹も知っていたはずだ。寧音にしか見せなかった沙羅の顔。それが英子にはすごく気になっていた。


 伸隆と接触をする前に、もう一人のストーカーと呼ばれている女生徒に会わなければならない。小酒井卯月。樹が最も嫌っている人間だ。しかし、寧音の事があったことを考えれば、卯月の事も樹は冷静に見れてはいなかっただろう。周りの噂や戯言を鵜呑みにして、判断していた。だからこそ、会いに行かなければならないと思った。あのおまじないの入った封筒を沙羅の元にではなく、放送部に置いて行った理由も知りたかった。


 樹は気が進まない様子だ。英子が放課後樹を迎えに行くと、樹は椅子に荷物をおいて俯き座っていた。英子は言葉がかけられず、ただドアの前に立っていた。何人かの生徒が不思議そうに英子を見てくる。

 やっと英子の姿に気が付いた樹は、席から立ち上がり、鞄をもって彼女の前まで歩いて行った。


「すいません、先輩。わざわざ迎えに来てもらって」


 英子は首を振った。そんなことより、樹の事の方が心配であった。


「行きましょう。小酒井のところですよね」


 彼はそう言って教室を出た。彼の背中はひどく曲がっていた。



 樹が向かった場所は小酒井の教室ではなく、図書室だった。卯月は図書委員をしていて、当番でない日も基本、図書室にいるらしかった。

 放課後の図書室は人気がなかった。昼休みには時々、受験生が自習に使っていたが、放課後になると塾に行く人も多く、図書室を使うことは稀だ。


 樹と英子が図書室に足を踏み入れる。周りを見渡しても、卯月ばかりか人ひとり見当たらない。二人はゆっくり歩きながら、本棚の方へ向かう。もしかしたら、その奥に卯月がいるかもしれなかったからだ。どんどん奥に進み、本棚と本棚の間を覗いて歩く。そして、目の前で本がどんと床に落ちる音がした。

 卯月がそこに立っていた。彼女は樹を見た瞬間、顔が青ざめ震えあがる。卯月の目の前にはおまじないの本が一冊落ちていた。卯月がおまじない好きというのは本当だったらしい。

 樹が近づこうとすると、卯月は慌てて走り出した。英子はそれを追いかけようとした。


「小酒井さん、まって!」


 叫んだのは樹だった。卯月の足は止まる。英子も足を止め、振り返った。樹は神妙な面持ちで二人の前に立っている。


「ごめん…。最初に謝るから」


 樹が頭を下げた。あんなに卯月を嫌っていた樹がなぜ謝り出したのかわからなかった。英子も卯月も樹を見つめていた。


「僕はずっと、小酒井さんが美堂先輩にしつこく付きまとっていたと思ってた。でも、美堂先輩が君を嫌がっていたなんて話、聞いたことは一度もない。なのに、僕たちが勝手に君と美堂さんとの手紙のやり取りを奪ったんだ。君の手紙を僕たちは捨てた。その事で君を傷付けたこと、本当に悪かったと思っている」


 卯月はぎゅっと唇を閉めて、目線を外す。英子も何も言えないでいた。


「だから、こんなことを言うのもおこがましいとは思うけど、小酒井さんの知っている美堂先輩の事を教えて欲しい。君になら僕らの知らない美堂先輩を知っていると思うから」


 その間、樹はずっと頭を下げ続けた。人を邪険に思うのは簡単だったと思う。でも、それだけでは相手は心を閉ざすばかりで、話なんてしてくれなくて当たり前だ。英子も樹も沙羅の真実を知ろうとしている。寧音が昨日話してくれたように、噂と真実は異なるものだ。ましてや、相手をよく思っていない状態で聞く話など、偏っていて当然。昨日、寧音が本当の事を話す気になったのは、英子が寧音の話を信じると言ったからだ。英子が寧音の敵ではないことは寧音にもわかっていた。散々嫌がらせを受けて、誰に対しても警戒していただろう。そんな寧音に話を聞くためには、こちらを信用してもらわなければならない。

 ならば今回の卯月について自分がやらなければならないことが何なのか、樹は理解していた。どんなに英子が説得したところで、自分という不信感の塊がいたのでは話にならない。まずは、自分が卯月に誠意を向けるべきだと思った。


 卯月は黙ったままだった。逃げるのはやめ、落とした本を拾う。そして、ゆっくり読書用の机に向かって歩き出した。本を机に置き、椅子を引いた。


「とりあえず、座ってください」


 卯月は消えてしまいそうな声で言った。英子は卯月の言われた通り、椅子に座る。樹も英子に合わせて、隣の席に座った。

 しばらくの間、卯月は図書室からいなくなっていた。


「高倉先輩、すいません」


 樹がおもむろに謝る。英子は首を傾げた。


「もし、昨日、俺だけが田沼先輩に会ってたら、本当の事は聞き出せなかったと思います」


 英子も樹に合わせて机を見つめる。あの時は英子も必死だった。樹にはわからなかったかもしれなかったが、英子は寧音の事を無視できなかったのだ。


「沼田さんを見て、自分の事思い出してた。」


 英子が珍しく自分から話し出したので、樹は驚いて英子を見た。


「今もあまり変わらないけど、私も中学の時、クラスメイトにハブられてた」

「え?」


 樹はつい、聞き返した。


「たまたま近くにいたクラスメイトに話しかけられて、私たちはたわいもない話をしていた。そしたら、急にその子が不機嫌になって、私の前から去って行ったの。何がいけなかったのか、何が気に食わなかったのかはわからない。けど、次の日からクラスメイトに無視されて、私はずっと孤立してた」

「そんなに怒らせるようなことを言ったってことですか?」

「わからない。私にとってはどうでもいい事だった。けど、その子にとっては私を無視したいぐらい気に入らないことだったんだと思う」


 英子は一息おいて話し始めた。


「人の気持ちなんてわからないものだと思う。私たちはきっとこうだろうとか勝手に都合よく解釈して、その人の事を完結させて見てしまうの。だから、誤解も生じる。昨日の沼田さんも同じ。みんなが沼田さんを悪く言うから、沼田さんを勝手に悪者にしてた。けど、沼田さんも理不尽な目にあってて、被害者の一人なの。だから、美堂さんは怒ることはせず、ごめんねって謝ったんだと思う」

「でも、それは美堂先輩の所為じゃありません!」


 樹はつい強い口調で言ってしまった。慌てて口を閉じる。


「そうなのかな。美堂さんは田沼さんが虐められていたことも、濡れ衣を着せられていたことも知っていた。美堂さんが周りの皆にやめてって言えば、おさまったことなのかもしれない。けど、美堂さんは出来なかった。ただ、見ていることしか出来なかった」


 英子は前を向いて、ねえと樹に尋ねる。


「虐めてる人と虐められているのを知っていて何もしない人、どっちが悪いのかな?」


 そんなのいじめてるやつが悪い。この間までならそう答えていたと樹は思った。


「私は、実行者も傍観者も変わらないと思う。何もしないで見てるのって虐めているのと同じだよね。だって何もしない時点で、虐めている人と同じ考えなんだもん。この人は虐められても仕方がないって。そして、どこかで自分は関係ないと思っている。その部分に関してはむしろ実行犯よりも残忍だと思う」

「私もそう思います」


 突然、話に加わってきたのは卯月だった。彼女はお盆に紅茶のセットを乗せて二人の前に現れた。


「これ、図書委員の特権なんです。いいでしょ?」


 卯月はそう言って笑った。そして、紅茶のセットをそれぞれの前に置いて行く。


「ただ、みんな自分を正当化したいだけなんだと思います」


 卯月は真っすぐした目で英子に言った。樹にはあんなに怯えていたのに、英子には素直に対応している。樹の今までの印象と目の前の卯月は違った。


「虐められたくないから、虐められている子に何もしない。そうすれば、自分が守られるから。でもその子に何もしていないから、自分は何も悪くないとそう思っているんです。でも、虐めている方だって虐められている奴が本気で悪いと思って、正義の鉄槌を加えているんですよ。そして虐められている子も、自分は何も悪くないと思っている。そうじゃないですか、高倉先輩」


 彼女は英子を知っていた。英子の方は卯月とは面識がなかった。


「初めまして、小酒井卯月と申します。高倉先輩のことは、美堂先輩から聞いていたんです。自分を曲げない、真っすぐな人がいるって。何にも混ざらなくて、自分を持っている人だって」

「美堂さんが?」

「はい」


 彼女は嬉しそうに返事をした。


「小酒井さんは美堂さんと仲が良かったの?」


 英子のことを話すぐらいだ。それなりの仲なのだろうと思い、英子は尋ねた。


「はい。美堂先輩とはをしていました」


 彼女はそう言って笑った。

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