007

 放送室は職員室の前の廊下を通り抜けた先にあった。廊下の突き当りの部屋。明かりはなく、室内には誰もいないようだった。


 すでに日が落ち、外は暗くなり始めていた。部活動の生徒たちも下校する時刻。職員室の明かりだけ煌々とついている。英子はこんなところを教師にばれたら怒られるんじゃないかと不安を感じながら、廊下を抜けた。


 樹はポケットから、部室の鍵を取り出す。部長だからなのか、すでに鍵はズボンのベルト紐にホルダーで固定され、私物化されていた。その鍵で放送室に入り、部屋の電気をつける。

 英子が放送室に入るのは久々だった。作文を朗読しに放送室に来たのは2年生の時だから、約一年前だ。部屋は思っていた以上に狭く、荷物が多かった。あの時は確かに緊張していて、今のように放送室を注視することもなく、どんな部員がいて、どんな部屋だったなんてほとんど覚えていない。それに、あの時指導してくれたのは、同じ学年の副部長の女子生徒で、沙羅ともほとんど話さず、副部長の合図で始まり、沙羅のナレーションから英子の朗読に入ったのだ。その後、朗読が終わった時には緊張しすぎて疲れ果て、そのまま軽く会釈をして1人で放送部を出ていったのだけは覚えていた。


 放送室の床はカーペットになっているため、上履きはカーペットの手前で脱ぎ、右隅に置かれた棚にしまうようになっていた。背の低い本棚には台本のような冊子がいくつも並べられていて、段ボールの中には何かわからない作り物が無造作に詰め込んである。引き出しのある戸棚に、ビデオテープやファイル、CDなどが並べてあった。

 英子は樹が手渡ししてくれた座布団を敷いて座る。その間に樹は棚からA5ほどのファイルを数冊渡した。中を開いてみると、放送部の活動写真だった。表紙には去年とおととしの年数が書き込まれている。


「それが先輩のいた頃の活動写真です」


 彼はそう言って、また別のものを探し始めた。

 その活動写真のアルバムの1ページ目には、沙羅たちが新入部員として入って来た時の写真が挟み込んであった。中心に映るのは英子の知らない人ばかりだ。その端に口角だけ上げて、空笑いを浮かべた沙羅がいた。


 英子が沙羅を知っていたのは1年の頃からだが、直接関わったのは3年に入ってからだ。他のクラスに美人がいる。しかも成績も優秀らしい。そんな噂を聞いていただけで、その当時の英子は興味も持たず、知識だけがあった。半年も経てば、体育祭や文化祭などイベントで、顔だけはなんとなく知っていた。その程度だったのだ。だから、この当時、沙羅がどんな風に笑っていただなんて、英子は知らなかった。


 その写真に写る沙羅はどこか寂しそうだ。高校に入ったばかりで、知らない人に囲まれて不安な気持ちではあったのだろう。けれど、英子の知る沙羅はそんなことで不安がりはしなかった。しかし、本来の彼女の姿こそがこうだったのかもしれない。英子と同じで人と馴染むのを好まず、どこか一線を引いて付き合う。実際はそんな普通の女の子だったのではないだろうか。


 英子は次のページを開いた。そこには沙羅が中心とした写真がある。おそらく何かの大会の時の写真だろう。手にはトロフィーをもって、みんな嬉しそうに笑っている。中には喜びすぎて泣いている生徒もいた。いかにも青春を謳歌しているという写真だった。この時の沙羅は本当に嬉しそうであった。照れくさそうでもあったが、その喜びに嘘はなさそうだ。

 そして、次の写真は、どこかの施設の写真だ。これがどんなイベントなのかわからず、英子は探し物をしている樹に尋ねた。樹は作業の手を止めて、英子の見る写真を覗く。


「ああ、これは老人ホームで朗読会をした時の写真ですよ。僕はこの時いませんでしたが、次の年も同じボランティアをやっているので、そこには写っています」


 老人ホームのボランティア。この写真から少しだけ様子が違うように見えた。そこに映る沙羅が、英子の知る彼女によく似ていたからだ。何かが起きた。いつからかはわからないが、入学してからこれまでの間に沙羅に何か変化があったように思えた。そのボランティアの時の写真は何枚か挟んである。その中に見覚えのある教師が2人いた。数学教師のわたりと社会教師の宅間たくまだ。顧問の茂田枝ならわかる。なぜ、このイベントでこの2人が写っているのかわからなかった。


「その2人でしょ?僕も後から聞いたんですが、その2人は先輩たちの入学と同時に就任してきたみたいで、その勉強の一環として行かされたみたいです。だから、渡先生も宅間先生も仲がいいんですよ。そういえば、去年は国語教師の藤越ふじこし先生が来ていましたね。全然慣れていないから、1人であたふたしていました」


 彼は作業をしながら答える。新人教師の実習の一環。教師と雖もサラリーマンだ。こういう慈善事業には参加させられるのだろう。教師の事などあまりに興味がなかった英子は、少し驚きを感じた。


「放送部って、意外と教師と関わること多いんですよ。構内放送の使い方、全然わからない先生とかもいるし、そういう時は美堂先輩がよく声をかけられていました。教師の中でも彼女は優秀だって有名だったし、声をかけやすかったのかもしれません。次のページを開いたらわかりますよ」


 彼はそう言って英子に次のページを開かせる。それは文化祭の時の写真だった。そこにはあの体育教師の宇都宮が沙羅に近付いて、いかにも嬉しそうに写っているものだった。他にも女性教師が写る写真もいくつかあった。交流が深いようだ。


 そして、朗読会の写真。沙羅は実に生き生きと朗読を読み上げている姿があった。そこでも入賞し、嬉しそうに写真を撮っていた。そこに気になる名札を付けた先輩の姿が見えた。英子は振り向いて、指をさした。


「この人の名札の名前、『小酒井』って…」

「そうです。その人があの小酒井卯月の姉です。だから、あいつは昔から先輩のことを知っていたんです。次の年の文化祭では、卯月自身も写っていますよ」


 英子は急いで翌年の写真を開いた。たしかに、去年の文化祭の写真の一部に中学生ぐらいの女の子が1人写っていた。


「その子が小酒井卯月ですよ」


 樹もその写真を見て頷く。これが沙羅のストーカーかと、英子はつい凝視してしまった。癖のある茶色がかった髪のいかにも自信のなさそうな少女だった。ストーカーなんて大胆なことが出来るような少女には見えない。


「たぶん、この時にはもう好きになっていたんでしょうね。結局、放送部には入ってきませんでしたが、入学早々、うちの部の近くでよく見かけましたから」


 樹の言葉に少し棘を感じた。彼女は放送部にまで迷惑をかけるほどの行為をおこなっていたのだろうか。2年前の写真と去年の写真を比べながら、英子は観察していた。


 去年の写真はどれも沙羅が中心にいた。誰もが彼女を慕い、彼女はあの天女の様に穏やかな表情で笑っている。彼女の中で何が変化したかはわからない。けれど、彼女は何かで変わった気がした。

 そして、もう一つ気になったことは、目の前にいる樹が写真の中では一度も笑っていないことだった。男子生徒の少ない部活動だが1人ではないし、部員ともそれなりに仲良くやっているように見えた。だからこそ、部長にだって任命されたに違いない。

 その中でも一際目を引く写真があった。写真の中心には沙羅と同級生の写る写真。その奥に、樹の姿が見えた。写真を意識したのか、顔はこちらを向いている。強い眼差しで、憎む相手でも睨んでいるかのような顔だった。目の前にいる樹は穏やかそうに見える。誰かを恨んでいるとか、妬んでいるとか、そういう感情は見えなかった。だから、目の前のいる人物と重ならなくて、英子は違和感を覚えていた。


「高倉先輩、去年の美堂先輩の朗読大会の動画もありますよ」


 突然話しかけられた英子は、体を跳ね上げた。樹は何事かと首をかしげる。


「うちの部活すごいでしょ。今どきデジタルだっていうのに、昔からの伝統でこういうものをわざわざ残すように言われているんです。この動画もDVDに焼きいれて、OBとかに渡すこともあって、それも1年の仕事だから、去年は本当に大変でした」


 樹はそう言って机の上のノートパソコンに電源を入れる。そして、手に持っていたDVDをパソコンに入れて、英子に見せた。そこには誇らしげに会場に立ち、気持ちの入った朗読を読んでいた沙羅がいた。課題の朗読とはまた別に自主課題もあり、そこでは森鴎外の『舞姫』の一説を読んでいる。


 その時、ガラガラと音を立てて、放送室の扉が開いた。樹も英子も驚き、振り向く。そこには見覚えのある女子生徒が1人、立っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る