006

 英子たちが通う、漆野うるしの市立高等学校の校舎は、割と新しかった。学校自体は昔から存在していたが、老朽化が進み、8年前に建て直されたのだ。だからむき出しのコンクリート造り。1階はピロティ―になっていて教室はない。あるのは倉庫と昇降口の玄関だけだ。2階に3年の教室と職員室などがある。3階が2年と1年の教室があった。特別教室が4階。なぜ、こういう作りをしたのかはわからないが、4階は人通りも少なくいつも静かだった。

 別館も設けられていて、一部の特別教室がある。そこは主に部活動などを行う教室の音楽室や美術室、視聴覚室や情報管理室など、割と放課後には賑やかになる場所だ。


 その人気のない4階に2人は向かっていた。

 なぜ、化学室の鍵を樹が持っているかは知らない。本来、特別教室は一部資料室を除いて、基本的に鍵はかけられていない。しかし、化学室に関しては事故の事もあり、今は鍵がかけられていた。そもそも授業でも化学室を使うことは少ない。中学の時は実験を行う授業も多かったので化学室は活用されたが、高校に入ると資料を見ながらの講義が増えたため使うことはほぼない。実験となれば準備に時間がかかり、危ない薬品や火を使う。その手間を考えると効率的のよい教室での勉強する方が良いとされていた。化学室と言っても、薬品や実験道具などは鉄でできた分厚い扉の向こうの化学準備室に保管されているので、開けっぱなしにすること自体は問題なかった。あの事件までは。


「放送部の顧問って化学教師の茂田枝もだえだなんですよ。あいつ、基本だらしがないから化学室の鍵なんて机に投げっぱなしだし、簡単に持って来られるんです」


 それはあまりに杜撰な管理だと英子は思った。そして、それをなんの罪悪感もなく持って来られる樹もすごいと思う。

 樹は化学室の扉の前に立ち、鍵を差し込んだ。がちゃりと大きな音を立てて解除した。彼はなんの躊躇もなく扉を開けた。開けた瞬間、生ぬるい空気が漂う。微かに薬品の匂いもした。おそらく、現場検証を終えた後、教師たちが片付けたのだろう。床には埃一つなく、洗剤の匂いが微かにした。


 樹はすぐに窓に向かって歩き出した。沙羅が落ちた窓の前だ。

 化学室の窓は引違い窓ではなく、外開きの窓になっている。この新しい校舎では引違い窓はほとんど使われていない。そして英子たちの教室の窓は転落防止の為に回転窓になっている。中央に軸はあり、身を乗り出すほどの広く開かないようにロックされていた。また、換気に関してはルーバー窓というガラスのブラインドのような形の窓を使われているため、今まで転落事故などなかったのだ。

 ただし、化学室のような特別教室に関しては一部この外開き窓を使用していた。その理由は定かではないが、もしかしたら沙羅はこの解放感のある窓が設置されている教室を求めて化学室を使っていたのかもしれない。


 樹はゆっくりとレバーに手をかけて窓を開ける。その瞬間、生暖かい空気が流れ込み、後ろにいた英子の髪を揺らした。その外開き窓は全開できない。半分開いたところでロックがかかった。もし、ここにいたのが華奢な女子生徒でなく、男子生徒だったらおそらく落下は防げていただろう。

 樹は沙羅が座っていたであろう窓枠に腰を据えて、外を眺めた。その窓の先には夕日が沈む姿があった。目の前にはマンションやビルが立ち並んでいるので、景色がいいとは思えなかった。


「…先輩は、ここで何を見ていたんだろう?」


 しばらくの間、黙っていた樹が口を開く。わからない。英子には答えられなかった。


「ここは、先輩の好きな場所だったんです」


 樹は語るように話し始めた。


「先輩が好んでこの部屋を使用していたのは知っていました。先輩はこの部屋に来て、このドアを真っ先に開けて、いつも外を見つめていた。ここは風が気持ち良くて、先輩の長い髪が風で揺れて、とても綺麗で……。でも、その時、僕は先輩に声をかけられませんでした。かけちゃいけない気がしたからです。きっと待っていたのは僕じゃなかったから……」


 樹の表情は暗くなる。彼はずっと窓の外に顔を向けていた。


「実は一部の生徒の中で噂になっていたんです。先輩には恋人がいるって。彼女はその恋人を待っていたのかもしれません。僕はそれを知るのが怖くて、逃げるように立ち去りました」


 英子はゆっくりと樹のいる窓に近付く。樹も振り返って英子を見上げる。その時の英子は完全に樹のことが目に入ってはいなかった。沙羅の最後に見た景色。そして、座っていた場所。それに特別な意味があると思った。


 英子はそっと開かれた窓枠に触れる。窓の開放されている広さは差ほど広くない。


「本当に誤って転落したのかな?」


 英子が呟くように言った。樹は茫然とする。


「どういうことですか?」

「このスペースなら、華奢な女性がすり抜けることは可能だけど、すこし滑ったぐらいなら、きっとそばにあるガラス窓とか窓枠に手をかけられたと思う」


 そうかと樹も理解した。転落したにはあまりに狭すぎる。


「たしかに。なら、どうして転落なんて……」

「それを忘れるぐらい衝撃的なことがあったのか、本人の意思で落ちたのか」

「なら、自殺か他殺ってことになりませんか?」


 英子は首を横に振った。


「わからない。例えば、大きな蜂が近づいてきたとか、誰かが突然やってきて驚いたとか、そんなことでも忘れてしまうかもしれない」


 樹は黙って、窓から離れて考え出した。


「虫で驚いている先輩は見たことはないし、もし予期せぬ人が来たとしたら、その人が転落したことを誰かに伝えるんじゃないですか?」

「怖くなって、伝えられなかったのかも……」


 2人は再び黙ってしまった。

 英子はもう一度考える。沙羅はこの場所で何をしていたのか。いつものように窓を開け、窓枠に腰を下ろす。風にあたりながら、もしかしたら誰かに会っていたのかもしれない。誰かはわからないが、こんな場所で密会する相手だ。誰にも見られたくなかったのか。考えれば考えるほどわからなくなった。

 そもそも、沙羅がここで誰かを待っていたとか、秘密の恋人がいたというのも確信がない。単純に気が抜けていたところに誤って転落という考えが妥当なのかもしれないが、あの沙羅が気を抜いた状態でこんな場所にいるとは思えなかった。だとすると、彼女は彼女の意思で落ちたのか。争った痕跡がない以上、沙羅は抵抗していないのだ。抵抗をしなければ、落下するのは当然だ。


「ずっとここにいたら、誰かに見つかってしまうかもしれません。出ませんか?」


 樹は窓を閉めて言った。英子も頷く。


「実は放送室に、先輩の記録がいくつか残っているんです。もしよかったら、高倉先輩にもそれらを見ていただきたいです」


 放送室は放送部の部室である。確かに放送部になら、沙羅について何かわかることもあるかもしれない。英子は樹に誘われるがまま、放送室に向かうことにした。

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