005
樹の誘いで、次は沙羅の下駄箱を見に行くことになった。
英子は教室に出てからもずっと樹との距離を取っていた。目の前を静かに歩く樹。その2メートル後ろから英子はついて行った。
英子は人と関わるのがあまり得意ではない。それは男女問わずにだ。高校に入ってからも、特別に仲のいい人はいなかった。それに対して気にしていた生徒もいない。だからいつも空いた時間は勉強か、読書に費やしていた。気まぐれなのか、時にクラスの女子生徒が話しかけてくることはあったが、軽く返事をするぐらいで長話はしない。英子にはその程度の距離感が丁度良かったのだ。誰かに関わり、その関りから心を乱されるぐらいなら、最小限の関係でいい。会話の返事に頭を凝らすのが疲れる。自分にとって何の思いれもないその言葉で、相手がやきもきするのが見ていられなかった。自分が他人を干渉しない代わりに、自分に何の感情も向けてほしくなかったのだ。
ただ、沙羅だけは違った。彼女と関わりたいなど思った事はない。けれど、彼女から向けられるその目線は嫌ではなかった。彼女の視線は柔らかい。向けられたとしても風の様に過ぎ去っていく。そこに悪意や欺瞞などなく、ただ彼女の視界に入る背景の一部のようだった。彼女と交わした、たった一つの会話。彼女はいつも誰かと関わり、一人でいたことなど想像は出来なかったが、その集団に交わらない彼女はむしろ、自分と同じなのだとさえ思えた。だからこそ彼女も、英子の誰にも関わらないという静寂とした空間を気に入ったのだと思う。
階段を降りていく途中で、樹の足が止まった。英子も合わせて止まる。折り重なったその階段で樹と英子は目が合った。
「高倉先輩は、美堂先輩と仲が良かったんですか?」
英子は首を横に振った。こんなことをしているのだから、そういった疑問は当然だ。
「そうですか……。そう答えるだけでも、高倉先輩は美堂先輩のことをちゃんと見ていたんだと思います」
どういうことなのかわからず、英子は逸らしていた目線をもう一度樹に向ける。英子の目には、樹の無表情な横顔が見えた。
「美堂先輩はいつもどこか遠くを見ているような人で、目の前にいるのにいないという感じでした。でも、美堂先輩があまりに穏やかに微笑んでいるから、皆、彼女がその場で楽しんでいる、参加していると思っていたんだと思います。でも、僕はいつも不満でした。どんなに彼女に関わろうとしても、掴もうとしても、すっと手から抜けていってしまうようで…」
僕はおかしなことを言っていますねと樹は顔を上げて笑った。その笑みはあまりに寂しそうであった。
「僕は美堂先輩の事を何も知らないまま、忘れることなんてできない。僕は彼女の理解者でありたかった。全てを知りたいとはいいません。一部分でいい、一つでもいいから本当の彼女を知って、お別れしたかったんです」
彼の握りこぶしが震えていた。淡々と話している彼だが、そこに大きな感情が潜んでいた。彼は悔しいのだ。彼女に歩み寄る前に彼女が消えてしまったことが。彼は沙羅によって、予告もないままこの世界に置き去りにされてしまったのだ。
「これが僕の彼女の真相を追いかける動機です。不純かもしれないですけど、諦めきれなかったんです」
動機が不純であるのは英子も同じだ。人と関わるのは避けたい。けれど、こうやって彼女の真相を調べる以上、一人では限界がきてしまう。ならば、樹と一緒に行動した方が、より真実に近づくかもしれない。そう思った。
2人は階段を下りて、下駄箱のある昇降口の前に着いた。壁際にあるロッカーに沙羅の下駄箱はある。樹は迷うことなく、まっすぐ沙羅の下駄箱に向かった。
すでに夕暮れとなり、昇降口は薄暗かった。西日が入り口のガラスを通して、2人を照らす。遠くから、部活帰りの生徒たちの声が響いていた。
「開けますね」
樹はそう言って、沙羅の下駄箱を開ける。靴も上履きももうない。片づけられた後なのか、砂も埃も何もなかった。
「ここも綺麗に掃除されていますね……」
樹は呟くように言った。この校舎に沙羅がいたという事実が少しずつ消えていくのを感じた。
靴箱の中を覗く。上の段が上履きの置く場所。そして、下の段が外履きを置く場所だ。樹は手を伸ばして何かないか確かめた。そして、下の棚の底に何かでこぼこしたものを見つけた。
「何か掘ってあります」
樹はそう言った。横にいた英子も目を凝らす。
「名前ですかね…。わかりにくいですが、卯…月?」
「卯月…」
英子は最初、陰暦の4月意味を持つ『卯月』を想像した。しかし、樹の口からは別の見解が出た。
「たぶん、
英子は驚いた。人の下駄箱に自分の名前を刻むなんてファンの域を越えている。そしてそんな細かい事まで知っている樹にも疑問を感じていた。
「安全ピンか何かで削ったんでしょうね。美堂先輩に気づかれないように下駄箱の下の段の奥にありました。もしかしたら、あの5円玉も小酒井が送ったものかもしれない」
彼はそう言って下駄箱を閉じた。
「美堂先輩には女子のファンもたくさんいました。ファンぐらいだったら問題ないんですけどね。一線を越えてしまう人なんていくらでもいますよ」
彼はそのまま昇降口から離れていった。英子もとりあえずついて行く。
「では、次の場所に行きましょう」
振り向いた樹の手にはどこかの教室のカギがぶら下がっていた。
「化学室です」
そこは沙羅が転落した教室だった。
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