008

 そこに立っていたのは隣のクラスの喜多原知弦きたはらちづるだった。

 交流の少ない英子がなぜ、知弦を覚えていたかというと、放送室で原稿を読む際、指導してくれたのが知弦だったのだ。しかし、彼女に会うまではずっと忘れていた。


「喜多原先輩!どうしたんですか?」


 樹は立ち上がり、知弦に声をかけた。知弦は2人の顔を見て苦笑した。


「それはこっちのセリフだよ。もう下校時刻でしょ?」


 それはと樹は口ごもる。樹も下校時刻とわかっていながらも、ここで証拠集めをしていたのだから。それにこのことを知弦に話すかも迷っていた。

 知弦は英子の見ていたノートパソコンの動画を目にやる。そこには、沙羅の朗読会の映像が流れていた。知弦はそうかと納得して、部屋に入ってきた。


「沙羅の事、思い出していたんだね。あんな事故があったから、みんな辛いよね……」


 知弦は愛しそうに沙羅の動画を見ていた。

 英子には沙羅が死んで一番悲しんでいるのは、この知弦のように見えた。彼女が沙羅にとって特別な存在なのは知っていた。雰囲気の違う2人なのに、よく一緒にいた。沙羅はしっかりしていたが、自発的ではない。だから、いつも沙羅の手を引いていたのは、この知弦だったのだ。


「しかし、高倉さんが放送部まで来るって珍しいね。沙羅とそんなに仲良かったっけ?」

「僕が連れて来たんです。聞いてみたいことがあったんで…」


 樹は誤魔化すように、必死で答えた。知弦はその事について詮索するつもりはないようだ。英子も答えた。


「あんまり話したことはないです。ただ、クラスメイトだったから。今更だけど、美堂さんってどんな人だったのかなって」


 知弦は驚いていた。知弦も英子の事は詳しく知らないが、いつも教室に1人でいるイメージしかなかったので、他人に興味を示すなど思いもしなかった。


「そっか……。高倉さんも気になるよね」


 知弦は近くに置いてあったアルバムをぺらぺらとめくり始める。


「私と沙羅はね、いわゆる幼馴染みだったの。小学校からの付き合い。あの子の家はお金持ちだったし、親が厳しくていつも習い事ばかりさせられてた。その頃の沙羅は本当におとなしい子だったよ。笑ったこともあんましなかったし。だから、私から遊ぼうって誘ったの。放課後はあっちの両親が怒るから、そんなに遊べなかったけど、昼休みとか休憩時間によく一緒にいた。それからはよく笑うようになった。中学校に上がる頃にはすごく美人になってて、男子にも女子にもよくモテててたなぁ。友達もたくさんできるようになって……」


 知弦はアルバムを床に置く。


「だから、中学校からはそこまで一緒にいたわけじゃないの。でも、高校に入ったら一緒に部活に入ろうって誘ったんだ。沙羅は声がとても綺麗じゃない?だから、放送部とかいいかなって。私も興味がないわけじゃなかったし」

「でも、喜多原先輩はずっと裏方に専念されていて、あんまりアナウンスとかしなかったですよね。」

「だって興味があったのは裏方の仕事だもの。私は沙羅のあの声が活かせれればそれで良かったから。それに演出とか活動内容とかは基本、私が全部考えてたんだよ」


 樹はふと思い出して、ずっと気になっていたことを知弦に質問した。


「そういえば、なんで部長は美堂先輩だったんでしょうか? 基本、部活を仕切っていたのは喜多原先輩じゃないですか」


 うぅんと知弦は言葉を濁した。


「宣伝塔になるからっていうのが表向きだけど、本当は沙羅自身がやりたがっていたの。理由は教えてくれなかったけど、沙羅が自分からやりたいなんて言うことが珍しかったからやらせようと思った」


あまり自発的に動かないのが沙羅だ。部長などやりたがるとは思えなかった。実際、沙羅が部長に選ばれたとき、樹は周りから頼まれたのだと思っていた。


 樹は迷っていた。目の前にいる知弦に自分たちが何をしようとしているのかを伝えることを。しかし、沙羅の事を一番わかっている学生は、知弦をおいて他にいない。協力してもらうのなら、彼女しかいないのではないかと思う。ただ、大切な友人の過去を明かされることが、知弦にとって本意ではない場合、逆に調べにくくなる。

 それでもと樹は決意した。


「喜多原先輩。僕たち、美堂先輩の死が、ただの事故死だと思っていないんです」


 樹の発言で、英子も知弦も驚き、樹を見つめる。英子はまさか自分たち以外の人間に告げるとは思わなかった。


「喜多原先輩にとって、それが不快な考えかもしれませんが、僕はいまだに信じられないんです。美堂先輩がただの不注意で転落しただなんて…」


 知弦は英子の顔を見た。英子もそれに気づき、ゆっくり頷いてみせた。

 知弦は小さくため息をついた。


「信じられない気持ちはわかる。けど、警察がそう判断した以上、私たちにはどうしようもないじゃない?」

「それはわかっています。けど、絶対、先輩はわけがあってあの場所にいたんです。僕たちはずっと彼女のそばにいながら何も知らなかった。今になって好き勝手な噂が広まって、僕は悔しいんです。だから、せめて僕たちだけでも、本当の先輩を知りたい……」

「沙羅の本当?」

「先輩が本当は何を考え、何を望んでいたのか。それがあの事故にあると思うんです。それにもしかしたら、事故じゃないかもしれない。自殺ってことも――」

「沙羅が自殺なんてするはずないっ!!」


 その言葉を聞いて、知弦は急に怒鳴った。身体が小刻みに震えていた。樹は口を閉ざす。知弦も自分が感情的になったことに気づき、頭を抱え謝った。


「ごめん。沙羅は繊細なところはあったけど、自ら死を選ぶようなやつじゃないよ。私だってあれが事故だったかはわからない。あの慎重な沙羅がうっかり転落するっていうのも確かに不自然だよね。沙羅が1人で活動するようになったのは、1年の冬からだった。化学室に行くようになったのがいつからかはわからないけど、沙羅には私たちにも知らない秘密を抱えていたみたい」

「秘密?」


 英子は呟くような小さな声で聞き返した。


「それが何だったのか、私は知らないの。でも、沙羅は考えなしで行動する子じゃないから……」


 他殺の可能性を英子は話せなかった。沙羅が死んで一番悲しいのは、知弦かもしれないのだ。平静を装っているけど、前はもっと明るくて話しやすい人だったと思う。あの作文の朗読の時も知弦は慣れない英子をしっかりサポートしてくれた。放送をする提案をしたのは教師たちだ。知弦たちが望んだものではないのかもしれない。それでも知弦は一生懸命対応してくれた。いい人だと思った。友達思いで、部員の事も大事にしていて、沙羅の事も気を遣っていたと思う。


「樹たちが調べたいっていうなら私は止めない。けど、どんな結果になったとしてもあの子を責めないで欲しい。あの子がいなくなってから、周りの考え方がどんどん変わっていくの。沙羅が生きてた頃は、あんなに沙羅を慕っていたのに、いつの間にかあることないこと噂にして、面白がってる。今まで考えもしなかった妄想が真実の様に語られてる。そうやって沙羅が汚されていくのが私は耐えられないのよ」


 知弦の苦痛な表情に英子は心を痛めた。知弦の沙羅を思う気持ちが伝わる。


「僕たちはそんなこと絶対しません。むしろ、根拠もない憶測で先輩を傷つける奴らが僕も許せないんです。だからこそ、真実を知りたい……」


 樹の言葉に英子も頷く。


「僕は本当の先輩を知ったうえで、今回の死を受け止めたいんです」


 誰も本当の意味で沙羅の死を受けとめられている者などいない。今だって、あれは夢だと言われて、いつも通りの日常が返ってくるのではないかとさえ思っている。けれど、そんな日は来ないのだ。あんなに沙羅を慕っていた人たちも、沙羅が視界からいなくなれば忘れてしまうだろう。話題にも上がらなくなり、悲しむ者もいなくなり、忘れる。卒業する頃には何もなかったように終わっていくのだ。それでも、忘れられない人たちもいる。知弦や樹たちだ。深く関わってきたからこそ、心の中から沙羅を消すことなど出来ない。周りがどんなに忘れようとも。

 樹は決着を付けようとしている。いつまでも彼女の死を受けとめられず、心を揺さぶっていても仕方がない。その為に、知りたかった。知ることで、本当の美堂沙羅を知り、忘れることは出来なくともお別れは出来ると思ったのだ。できれば、自分以上に傷ついている知弦にもそうなってほしかった。


「もし真実がわかったら、喜多原先輩に全て報告することを約束します」


 樹が力強く答えた。知弦は目を閉じて小さく頷いた。


「わかった。待ってる……」


 そこから数秒の沈黙が続いた。

 その沈黙を破ったのは、再び放送室の扉が開く音だった。

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