017

 翌日、樹が教室に伸隆がいることを確認し、呼び出した。今度は3年の教室にも関わらず、直接教室に乗り込み、伸隆の座っていた机の前に立つ。睨みつける伸隆を見ながら樹はゆっくり近づいて、耳元で何かを囁いた。その瞬間、伸隆の顔が真っ青になる。


「お前、どこでそれを!」


 伸隆は叫ぶとクラスメイト達が驚き振り向いた。伸隆もその目線に気が付き、場所が悪いと言って席を立つと樹について来るように言った。樹も黙って従い、彼について教室を出ていった。


 英子は伸隆に連れていかれる樹の後を追いかける。そして、横に立った時、樹は英子に耳打ちをした。


「先輩。念のため、すぐに110番を押せるようにしておいてください」


 彼はそう言って、それ以上何も話さなかった。




 伸隆が連れてきたのは校舎裏だった。いかにもという場所だ。もし、個室に連れて行こうものなら、樹はその前に策を講じるつもりだった。


「おい、なんで女連れなんだ」


 伸隆は樹の後ろにいる英子を指さして言った。英子はびくっと肩を揺らす。正直怖かった。

 伸隆は想像通りの強面で図体もでかい。目つきは悪く、剃りこみを入れていた。


「保険です。それだけ、僕たちは危険な話をしているんですよ、馬嶋先輩」


 伸隆はちっと唾を吐いた。英子には何が何だかわからないでいた。


「それで、おまえなんでそのことを知ってる?」

の事ですか? それともと答えた方が良かったですかね?」

「この野郎ぉ」


 伸隆が睨みつける中、樹はかなり強気に出ていた。英子は樹が何を言っているのか理解できない。その幻の生き物の名前に何の意味があるのだろうか。


「正式名称はLSD。違法薬物の名前です。合成麻薬の一種でこのペーパーと呼ばれるものは、学生でも安易に手に入れやすいと聞いています」


 樹はそう言ってそのペーパーと呼ばれる1㎝角の紙の入ったビニールを見せつけた。伸隆は慌てて取り返そうとして、樹に近づいて行く。


「近づかないでください。僕が見つけたのはこの1枚だけではないですよ。もう1枚、安全な場所に隠しています。僕に何かあれば、ある人にそれを警察に渡すように頼んでもいます。僕は保険を多くかける方なんですよ」


 彼はそういってにやりと笑った。伸隆は悔しそうな顔をする。


「この小さな紙に合成麻薬が染み込ませているんですよね。口に含んで摂取するだけで約30分後には効果が出始める。幻覚、幻聴、時間や感覚の欠如が起きる。しかし、摂取することにより気分が向上したり、集中力が増すると言われています。嫌なことを忘れるにはもってこいの薬物じゃないですか?」


 樹はこれについてやけに詳しい。英子は何も知らなかった。


「頼む!見逃してくれよ。もし、あんたも欲しいっていうなら、知り合いの伝手を使って入手すっからさ!」


 今度は拝むように伸隆は縋ってくる。しかしそれを樹は軽蔑し、見下すように見つめた。


「僕がそんなものいるわけがないじゃないですか!これはあなた1人で入手したものですか?」


 樹は再びそのビニールを揺らしながら見せつける。伸隆は悔しそうな声を漏らした。


「確かにこれは学生でも手に入れやすい品物です。しかし、あなたはこの学校に来てあまりに人との関りが少ない。そんなあなたが1人でルートを見つけて、こんな学校ばしょで楽しんでいるとは思えないんですよ。全て吐かないと、今すぐ通報しますよ」


 伸隆はもうぐうの音も出なかった。英子はまさかそんなことが起きているなんて想像もしていなかった。つまり、伸隆が昼休み4階に向かっていたのはこの薬物を楽しむため。しかし、なぜ、危険をおかしてまでわざわざで楽しんでいたのか。それは、入手経路が学校だったからだろうか。他にもこの薬物に手を出している奴がいる。もしくは売買ルートがこの学校にあるかだ。樹は全てを理解したうえで伸隆に問い詰めているのだ。


 伸隆は観念したのか、その場で胡坐をかいて、頭を掻きむしった。彼には逃げる手段など思いつかなかった。


「売買ルートを見つけてきたのは、3組の内海うつみだ。あいつはLSDこいつで受験のストレスを発散している。そもそも、うちみたいな進学校は基本、エリート学生ばっかりじゃねぇか。そんな奴らが売買ルートを見つけたからって、売人とコンタクト取れると思うか?」


 伸隆は急にべらべらと話し始めた。英子も内海の名前は知っていた。内海直孝うつみなおたか、学年でもトップ10には入る秀才だ。あれだけの成績を維持するには相当なストレスが溜まっていたのだろう。それを薬物で発散しているとは、正直信じられなかった。そして、その買い付けに学年一の劣等生の伸隆が選ばれたということだ。


「だから俺がコンタクト取って、入手した。俺もさ、いろいろとむしゃくしゃしてたし、興味もあったから試してみたんだよ。ほんと、やべぇぐらい中毒性高いのな。今まで煙草や酒は普通にやって来たけど、あの感覚はなかったわ。けど、俺には金がない。あいつは金がある。俺はあいつのいうこと聞いて取ってくる代わりに、薬代は払ってもらってた」

「あいつってことは、他にもいるってことですよね?」


 樹の質問に、口を滑らしたことに気づき、伸隆も一瞬戸惑ったが、すぐに諦めてしゃべり始めた。


「同じ3組の大槻おおつきと1組の間宮まみやだ。お前のクラスの優等生様だぜ。驚いたか?」


 伸隆は大声で笑いながら、英子に言った。驚かないわけがない。クラスメイトの間宮もクラスの上位を占める秀才の1人だ。沙羅と同じ東帝医大を目指している。まさか、そんなものに手を出す生徒とは思わなかった。


「優等生たちが受験と薬でボロボロになっていくのを見んのは、ほんと楽しかったぜ。俺はずっとこの学校に来て、後悔してたからよ。田沼と付き合ったせいで、一緒の学校受験して、補欠2位でまぐれ合格。入学したとたん成績最下位で、クラスでハブ。そもそもこんな学校来る奴らとよろしくなんてできないだろう。田沼も馬鹿そうに見えて、あいつ、意外と勉強は出来るんだよな。だから、入学してそうそう振ってやった。そん時、クラスメイトだった人気No.1の魔性の女、美堂沙羅の名前でも出してやれば諦めると思ってよ。だけど、あいつほんと馬鹿だから、そんな美堂にちょっかい出して、返り討ちとかマジ笑いすぎて腹痛かったわ」


 伸隆はまた大笑いをする。樹の手には力強き拳が握られていた。


「なら、あなたが美堂先輩に告白してひどい振られ方をしたっていう噂は本当ですか?」


 樹は身体を震わせながら、目の前の男に聞く。伸隆は相変わらずにやにやと笑っていた。


「は? 告白なんてするわけないじゃん。まあ、男なら一度は抱いてみたい女だよな。散々甚振って捨てるとか爽快じゃん。あんな聖女みたいな顔した女をくだらない男どもに犯されるとかむしろ興奮しない、後輩君?」


 樹の気持ちに気が付いたのか、今度は伸隆が樹を挑発してきた。樹は今にも殴りかかりそうになっていたが、英子が腕を引っ張って止める。


「ってか、調子こいた内海が昔の噂を掘り返してきて、俺に告白して来いって命令してきたんだよ。だから、美堂に言ってやったんだ。告白する代わりに、一度でいいからやらせてくれって。そしたら、あの女が真っ赤な顔してひっぱたいて来てよ。俺も腹立ったから、その場で本気で犯してやろうかと思ったけど、誰が呼んできたのか宅間と渡をとんで来てよ、逃げるしかなかったわ。だから、土産話に、告白したらはたかれたって内海の奴らに言ったのよ。それを聞いてすぐ周りに言いふらしやがって、あのクズら。いつか絶対にぶん殴る!」


 そう言って伸隆は地面を思いっきり殴った。樹の身体は怒りに震えていた。それは英子も同じだった。沙羅はなんてひどい目にあったのだろうと思う。女である英子には辛い話ばかりだ。胸が苦しくなる。

 けれどここで樹が殴りにかかっても、腕力のある伸隆に逆にやり返されて終わるだけだ。今は耐えるしかなかった。


「そうそう、みんなさぁ、美堂のこと聖女のように崇めってっけど、あいつそんなきれいな女じゃねぇと思うぜ」

「どういうことですか?」


 自分を保つだけで必死の樹に変わって、英子が震えながら聞く。


「俺、美堂が4階の化学室に入り浸ってたの知ってたんだよな。まあ、あいつが1人ならしやろうと思ったけど、男が一緒だったからよ。それも頻繁に会ってて、絶対出来てると思ったぜ、俺は。たまに痴話げんかみたいのもしてたしな。あいつ、もう処女なんかじゃねぇぜ」


 伸隆は樹の前でそうはっきり言った。もう、樹は動ける状況ではなかった。


「馬嶋君はその人を見たの?」


 英子が欠かさず聞き出す。


「見てねぇよ。教室の外から声を聞いただけで、誰かまではわからなかった。でも、あれは学生じゃねぇんじゃねぇの。もっと大人だった気がするぜ。話し方もちょっと説教くさかったし。声だけじゃはっきりはわからなかったけどな」


 本当にいたのだ。沙羅には恋人がいた。しかも、化学室で逢引きをしていた。それがもし教師なら密会の理由もわかる。まさか、伸隆の口から、そんな事実が聞けるとは思わなかった。


 そうこうしているうちに、後ろから体育教師の宇都宮が現れた。誰かが喧嘩か、いちゃもんを付けられていると思って教師に連絡したのだろう。伸隆は慌てて逃げだしたので、宇都宮はそれを急いで追いかける。そして、その後ろから宅間と渡の2人もやってきた。宅間は宇都宮と一緒に伸隆を追いかけるため、渡に英子たちを頼んで立ち去った。渡はいかにも弱そうな教師だ。伸隆を捕まえるのには適していない。

 渡は2人を見るなり、優しく声をかけた。


「大丈夫かい? なにか脅されたりしてないよね?」


 彼がそう聞いた後、樹の手元にあるビニールを見つけた。そして怪訝な表情を見せる。


「君、もしかしてそれ……」

「違います。これは馬嶋君が使ったもので、私たちはそれを問い詰めてたんです」


 樹の代わりに英子が急いで説明した。渡は大きなため息をつく。


「そういうのはね、自分たちで解決しようとせず、必ず教師ぼくらに知らせてくれないかな。今回はすぐに君たちを見つけられたからいいけど、下手をしたら怪我をしていたかもしれない」


 英子は素直に謝った。渡は樹の手から例の物を受け取る。樹はずっと黙っていた。きっと何もかもがショックだったのだろう。英子自身も辛くて胸が裂かれそうな気持だ。けど、沙羅を本気で好きだった樹は、英子以上に傷ついているのかもしれない。


 英子たちは渡の案内されるまま、保健室へと向かった。おそらく、その後、この薬物の件で警察に呼ばれるだろう。特に薬物の使用物を持っていた樹はいろいろと詳しく聞かれるかもしれない。しかし、今は英子も何もしてあげられなかった。


 沙羅には恋人がいた。そして化学室で密会していた。痴話げんかもしていた。ならばあの日、沙羅の転落の原因がその恋人だったかもしれない。そして、その相手が教師だった可能性が出てきた。樹のためにも、亡くなった沙羅のためにもこの真実を知るべきか、英子は本気で悩んでいた。

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