026

 英子は教材を持って職員室へと向かった。失礼しますと挨拶をした後、渡の席に向かう。渡は宅間と楽しそうに会話をしていた。そこに、英子が申し訳なさそうな顔をして渡に話しかけた。


「渡先生。実は数学でわからないことがあるんです。教えていただけませんでしょうか?」


 渡が英子を見ると、少し驚いた顔をしたが、すぐに笑顔で答えてくれた。英子が今まで職員室まで来て質問をしてくることがなかった。珍しいと思われてもおかしくない。渡は宅間にすまんと謝って、その場を離れてもらった。宅間も快く従う。


「どこがわからないんだい?」


 彼はそう言って、英子の持っていた教材を受け取る。英子は付箋を付けていたページを広げ、彼に渡した。彼は英子が立ちっぱなしであることに気が付いて、となりの先生の椅子を引き寄せる。


「ここに座りなよ。立ちっぱなしはつらいだろう?」


 彼はとても優しい男だった。常に笑顔で答え、授業中でも怒ったところを見たことがない。生徒がふざけてきても、馬鹿にしたような発言をしてきても、彼が動じたところを見たことがなかった。いつもさらりとかわして、何事もないように授業を進める。堂々と数学とは違う科目をしている生徒がいても、寝ていて全く授業を聞いていない生徒がいても、注意することすらなかった。だから、生徒たちには嘗められていた傾向はあるだろう。

 渡は一生懸命説明しようとするが、職員室内は騒がしく聞き取りづらかった。英子は話を聞こうと少しずつ近づくと、渡は申し訳なさそうに顔で笑った。


「ごめんね。ここじゃ聞き取りにくいよね」


 彼はそう言って席を外し、宅間の元に向かった。何か原稿を宅間に渡しているように見えた。その間、渡の職員室の机の上を観察する。彼の机の上は他の教師たちの机の上より綺麗だった。物は整理整頓され、本も綺麗に順番ずつ並べられている。几帳面というのだろうか、おかげで何か見つかるヒントはここにはなさそうだった。

 渡は英子の方に向かって声をかけてきた。英子も椅子から立ち上がる。


「待たせたね。ここでは教えにくいから、数学の準備室でやろう。あそこは机と椅子もあるし、受験生にはちょうどいい参考書もある。悪いんだけど、先に準備室に行っててもらえないかな」


 渡はそう言って英子に鍵を渡した。これはチャンスだ。渡が来る前に準備室に入り、沙羅との何かを見つけ出せる可能性があった。

 英子は頷いて職員室を後にした。職員室を出た後、樹に準備室に来るようにメールをした。これなら、樹を先に準備室に忍ばせておくことが出来る。英子は足早に準備室に向かった。


 準備室の鍵を開けると部屋は思いのほか狭かった。授業でつかう道具や大きな定規のようなものがおいてある。棚には渡が言ったように参考書や昔の教科書が並んでいた。

 英子は急いで筆箱からカッターナイフを取り出しポケットに入れた。また、鞄からとアストッパーを取り出し、入り口を固定する。密室になるのだ。ドアストッパーで抑えておかなければ危険だ。こうしておけば、襲われにくいし、渡にも女子なのでとはっきりと言えば疑問にも思わないだろう。むしろ、扉を開ける方が普通だ。そして、もし樹が渡より遅く来ても、ドアを開けていれば自分たちの会話がはっきり聞こえるし、いざとなれば乗り込むことも出来ると考えた。

 準備は万全だ。英子は空いた時間で机の上や小道具を探っていく。もしかしたらどこかにあの暗号のメモが見つかるかもしれない。それをきっかけに聞き出すことが出来るかもしれないと思った。



 樹は英子が職員室に入ったのを確認して、職員室のドアの見える部室の前、放送室のドアの前に立っていた。部長であればここにいても不思議ではないし、何かあればすぐに駆け付けられる。しかし、職員室では常に誰かがいるもので、どこよりも安全な場所と考えていた。もし、危険があるとしたら職員室を出た後だ。もしかしたら、3年の英子の教室で教えるかもしれない。3年は受験生だ。教室に残っているものなどほとんどいないし、この階は3年の教室と職員室しかない。しかも職員室と教室の間には階段があり、むやみに教師が通ることもないだろう。英子を守るためにも見張る必要があった。また、会話を聞くためにも英子たちの所在地を把握する必要がある。

 その時だ。目の前に、誰かが現れた。それは宅間だった。宅間は申し訳なさそうに樹に声をかける。


「丁度良かった。部長がいるじゃん」


 彼は笑ってそう言った。樹は嫌な予感がした。


「今から放送を流したいんだけどさ、機械の操作、手伝ってくれる?」


 まさかこのタイミングで手伝わされるとは思わなかった。しかし、断るわけにもいかない。


「あれ? 宅間先生は何度か放送室にきてますよね。自分で操作できないんでですか?」

「まあそういうなよ。俺、実は機械とかめっちゃ苦手でさ」


 樹はため息をついて放送室のドアを開けた。そして、宅間を放送室に通す。調整機の前に立たせて、マイクに指さした。


「ここのボタンを押せば音が鳴ります。その音が鳴り終えたタイミングでこのボタンを押してください。押している間は放送が流れるので、そのまま話してください。逆に手を離したら声は出ません。最後、このボタンを押して終了です」


 サンキューと言って宅間は笑った。彼の手には原稿が握られていた。彼はなかなか放送を流そうとせず、一生懸命原稿を読んでいる。まだ始まらないのかと樹は苛立ち始めた。


「ちょっと先生。まだですか? 原稿読むだけですよね?」

「そうなんだけど、俺、こういう時、緊張してどもっちゃうから」

「緊張するってあなた仮にも教師でしょう。授業中とか教科書朗読してましたよね」

「だってあれは、生徒しか聞いてないじゃん」


 宅間は照れくさそうに笑った。樹は呆れながら手を伸ばす。


「なら、僕が原稿を読みましょうか?」


 あ、そうと安心した顔で樹に手渡そうとしたがその手が止まった。


「しっかしなぁ、俺が読めって頼まれてるしなぁ」


 宅間は迷っている様子だった。そもそもその原稿はなんなのだろうか。そして、誰が宅間に放送するように頼んだのか。宅間が進んで放送を流すとは思えない。


「先生、それ、誰に頼まれたんですか?」


 樹は宅間に聞いた。宅間はあっさりと答えた。


「渡だよ。数学の渡先生」


 その言葉を聞いてぞっとした。完全にやられた。英子が職員室に訪ねて来た瞬間から、すでに渡は樹の存在を予想していた。だから、樹を遠ざけるために宅間を放送室によこしたのだ。ということは、英子がなぜ渡に近づいたのかもすでに気が付いているはずだ。英子が危ないと、樹は急いで上履きを履きながら放送室を飛び出した。


「おい、どこ行くんだよ!」


 後ろから宅間が叫ぶ。しかし、樹は無視をして、3年の教室に向かった。

 3年の英子の教室を覗く。そこには誰もいなかった。急いで携帯を開いて、メールを確認した。そこには数学準備室に行っていると書かれた、英子からの連絡が入っていた。数学準備室。樹の顔が真っ青になった。そして、振り向くと放送室の前には茫然と立ち尽くした宅間がいた。樹は階段に向かって走り出しながら、宅間に叫んだ。


「宅間先生! 僕についてきてください!!」


 宅間はわけもわからず、は?と声を上げたが、樹の尋常じゃない行動に無視をすることが出来ず、たくっと首の後ろを掻いて、樹の後を追いかけていった。

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