雨に打たれるは

 傘を差しながら、小峰公園に到着した。雨の日特有の匂いで肺を満たし、噴水へと早歩きで向かう。

 午後の八時半という時間と雨のせいで、公園には人の姿が一切なかった。しかし木や壁には明かりの点いていない電飾が巻き付けられていて、本当はイルミネーションをやるはずだったことが伺える。

 夜。雨。明かりが点いていない電飾。それに加えて息が白くなるような冬の寒さのせいで、公園の雰囲気は空虚なものだった。

 はあ、はあ、はあ。久しぶりに早歩きなんてしたもんだから、息が途切れ途切れになる。でも俺は早歩きをやめなかった。なぜだか気持ちが焦ってしまい、やめられなかったのだ。どうして気持ちが焦っていたのか。その理由は噴水に到着してすぐに分かってしまった。


「蓮香!」


 噴水の前には、ピンク色の傘を差した女性が空を見上げていた。遠目からだと誰だか分からないが、その女性が着ていた厚手のコートには見覚えしかなかった。

 突如声を掛けられた女性は、肩をビクリとさせるなりこちらを向いた。


「柊一、さん?」


 雨音の中で聞こえたその声は、蓮香のもので間違いなかった。

 俺が早歩きで彼女の元に駆け寄ると、その顔が露わになった。公園の明かりに照らされた蓮香の頬や鼻先は、寒さで赤みがかっていた。

 息を切らす俺は、何か言わなくてはと頭の中で考える。しかしすぐに言葉は出て来ず、先に声を発したのは蓮香の方だった。


「遅いですよ、柊一さん」


 そう言って微笑む蓮香を前にして、ようやく俺はとんでもないことをしてしまったのだと気が付いた。この凍えるような寒さの雨の中で、蓮香を二時間も待たせたのだ。

 この気持ちをどうやったら伝えられるのか分からずに、俺は気が付けば傘を捨ててその場に土下座をしていた。


「まじでごめん! この雨じゃイルミネーションも中止だし、絶対に蓮香は待ち合わせ場所に来ないと思ってバイトしてた。本当にごめん!」


 びしょびしょのアスファルトの上に額を擦りつけながら、言い訳はせずに真正面から謝罪をする。

 ごめん。ごめん。何度もその言葉を繰り返したって、この寒い中で蓮香を待たせた事実に変わりはない。


「しゅ、柊一さん。顔上げてください」


「いやダメだ。こんな寒い中に蓮香を待たせておいて、なんてお詫びしたらいいか――」


「待たせたって言ってもたったの二時間ですよ。それに私は柊一さんが来てくれただけでも嬉しいんですから」


「この寒さの中で二時間も待たせたんだぞ。許して貰えないことは分かってる。だから――」


「もう。顔上げてくれないと本当に許しませんからね」


 むっとした声でそう言われて、俺は恐る恐ると頭を上げるしかなかった。そこにどんな怒った彼女の顔があるのかと思ったら、蓮香はただただ笑って俺のことを見下ろしていた。その笑顔に、俺の心はさらに痛む。


「あはは。やっと顔上げてくれましたね。それに私は土下座されるよりも抱きしめてくれた方が嬉しいんだけどな」


 冗談っぽく言う彼女だったが、俺は勢いよく立ち上がると、言われるがままに蓮香を思いきり抱き締めていた。相手が女子高生だろうと関係なく、申し訳なさでいっぱいの心のまま腕に力を込める。蓮香の体は女の子のもので、もう少し力を入れようもんなら粉々になってしまいそうだった。

 蓮香は突然抱き着かれて驚いたのか、差していた傘を地面に落としてしまった。二人して雨に打たれる状況となる。


「本当にごめん。俺、蓮香は絶対に来ないと思ってた」


「まあそうですよね。昔に一回会ったことがあるとは言え、ほぼ初対面の女子高生を信用しろって方が難しいですから」


「ああ、多分俺は蓮香のことを心のどこかで信用してなかったんだと思う。実際、蓮香は何が目的で俺に近づいてるのかって、怪しく思ってる自分も居たんだ」


 蓮香が何の目的で俺に近づいたのか。そんなの、最初から彼女自身が声に出してくれていたじゃないか。


「やっぱり。なんとなく気付いてましたよ。私、絶対に信用されてないなって。でも今日で、ちょっとでも私のこと信用してくれました?」


 蓮香が俺に近づいたのは、俺のことを二時間も待っていてくれたのは、何の目的でもない。俺のことが好きだから。ただそれだけだったのだ。


「ああ。俺が全部間違ってた。もう疑ったりなんかしない。疑ったりなんて出来ないよ」


 俺がそう言うと、蓮香は「ふふ、よかったです」と嬉しそうな声を紡いだ。

 すると今度は、蓮香が俺の首元に顔を埋めた。寒さで冷えた蓮香の顔が首元に押し当てられ、ちょっとだけくすぐったい。


「私、柊一さんに嫌われちゃったのかと思って少しだけ不安でした」


 声のトーンを少しだけ下げて言うと、蓮香はすがるようにして腕にぎゅっと力を込めた。

 そりゃあ連絡も一切取れない状況で、一人夜の公園に二時間も待たされたら誰でも不安になるよな。しかも彼女のことを不安にさせてしまったのは、全て俺が悪いんだから。


「不安にさせてごめん。全部俺のせいだ」


「私だって悪いですよ。連絡先さえ交換してれば、こんなことにはならなかったんですから」


「連絡先交換するの忘れてたな。あとで交換しよう」


「ふふ。嬉しいです。ありがとうございます」


 蓮香の嬉しそうな声に、「ああ」と短く返事を返す。すると突然、ぎゅるると気が抜けた音が聞こえて来た。それが蓮香のお腹の音だと気が付いて、俺と彼女は離れて顔を合わせた。そして同時に、俺と蓮香はぷはっと吹き出すようにして笑った。二人して雨に打たれながら、夜の公園で笑い声を上げる。


「学校でお昼ご飯食べたきり何も食べてないのでお腹空いちゃいました」


 照れ笑いをしながら、正直にお腹を押さえる蓮香。そんな彼女に、落ちていた傘を拾って手渡す。


「ああ、どうせなら何か食べに行こうか。何が食べたい?」


 もうすぐで二十一時になるので入れるお店は限られてくるだろうが、蓮香の食べたいものを食べさせてあげたかった。

 蓮香は渡された傘を差すと、「うーん」と考えてから手をポンと叩いた。


「温かいものが食べたいですね。ラーメンとか」


 ラーメン。そう言われてすぐに思いついたのは、俺がさっきまで居たあの場所だった。


「分かった。美味しいラーメン屋があるからそこに行こう。もう店は閉まってるけど、頼めば食わせてくれると思うから」


 俺が自信を持って言うと、蓮香はキョトンとした顔のまま首を傾げた。何も分かっていない彼女だが、今は事情を説明している場合ではない。一刻も早くお店に向かわなくてはラーメンが食べられなくなってしまう。俺はその一心で、雨に打たれ続けている自分の傘を拾った。

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