麺屋蘭

 ココアをご馳走になったお礼にと、蓮香は二人のマグカップを洗ってから家に帰って行った。その別れ際、彼女は「また来ます」と言っていた。

 友達になったので家に遊びに来ることは変じゃないが、二十代後半の大人が高校生と遊んでいるなんて近所の人に知れたら通報されてしまいかねない。

 もしもまた蓮香が家に来た時は、周囲に気を配る必要がありそうだ。


「はあ、なんか今日は疲れたな」


 誰も居ない部屋で独り言を吐きながら、ベッドに倒れ込む。

 フリーター生活を始めてからというもの人と接する機会が極端に減ったので、今日は久しぶりにバイト先の店長以外の人と喋った。


「津田蓮香、か」


 もう一度その名前を口にして、忘れないようにと脳に刻む。

 五年前は金髪不良少女だったのに、あんなに落ち着いてしまって。しかもそのきっかけになったのが俺らしい。小恥ずかしいような、困ってしまうような。変な気持ちになる。


「でも、いい子だったな」


 よく笑うし、明るい。今の俺とは対照的な子だが、接しやすいのも事実。しかも自然と呼び捨てで『蓮香』と呼べるようになっていた。蓮香って呼びやすいもんな。

 明るくて、よく笑い、俺に好意を寄せてくれる。でも本当に俺に好意を寄せてくれているのだろうか。もしかしたら本当にお金目当ての可能性だってある。

 うーん、と唸りながら考えても埒が明かない。もうこの際、どうにでもなれ。連絡先も交換していないし、また会えるのかも分からないのだから。


「……寝るか」


 このまま悶々と蓮香のことを考えていてもキリがないので、今日はもう寝ることにしよう。

 スマホで時刻を確認すると二十四時を少し過ぎたところ。そのままスマホに充電器を挿して、部屋の明かりも消す。

 いつもなら将来への不安で寝つきが悪かったが、今日はあっという間に意識が暗闇の中へと吸い込まれて行った。


 ☆


「いらっしゃいませー」


 店内に入って来たお客さんに声を掛ける。

 昨日は家にあの時の女の子がやって来るという出来事があったが、今日は普通にバイトだ。

 ラーメンのいい香りが充満する店内。狭い厨房の中には、女性店長と俺が黙々と仕事をこなしている。ここのラーメン屋は、俺しかバイトを取っていない。前に店長にどうして俺だけなのかと尋ねたところ、経費削減なのだと言っていた。


「犬飼くん。二番カウンターにライス出しといて」


「はい」


 店長に指示を出されて、俺は食器棚からお茶碗を取り出す。

 今、俺に指示を出した女性店長の名前は明智蘭(あけちらん)。俺の一つ上の二十八歳。胸下あたりまである長い黒髪と、シュッとした目鼻立ちが特徴的。可愛いというよりは、美人系の顔だ。それと彼女の一番の特徴は、その大きな胸。小ぶりのメロンくらいはありそうな彼女の胸は、制服である紺色のシャツの上からでも迫力がある。これを見るために来るお客さんも居るそうだから、店長の胸は招き猫的な役割を果たしているのだと勝手に思っている。


「ライスお待たせしました~」


 茶碗に炊き立ての白米を入れて、二番カウンターに出す。すると二番カウンターに座っていたお客さんが、無言で茶碗を取った。

 ここのラーメン屋の名前は、『麺屋 蘭』という。お察しの通り、お店の名前は店長の名前が由来となっている。カウンター席が八つとテーブル席が二つしかない、ごくごく普通の個人経営のラーメン屋だ。


「犬飼くん。そろそろ鳥白湯と塩ラーメンがあがるから準備しておいて」


「はい」


 店長は額に汗を張り付けて、茹で上がった麺をしゃっしゃっと音を立てながら湯切りしている。その度に大きな胸がばいんばいんと揺れるもんだから、食事中のおじさんたちもその瞬間だけは皆揃って店長の方を見る。

 今日は平日であるが、カウンター席もテーブル席も全て埋まっている。お昼時ということもあるが、ここのラーメン屋はいつだってお客さんが途切れない。十一時から十五時までの昼の部と、十七時から二十時までの夜の部だけお店を開けているが、その間にお客さんが一人も居ない状況なんて滅多に経験したことがない。ネットの口コミでも話題の、人気ラーメン店なのだ。

 スープが入っているどんぶりに、店長が麺を流し込む。その隙に俺は麺をほぐし、ネギやメンマなどのトッピングを行う、それからレンゲを添えて、お客さんにラーメンを提供する。

 店長が麺とスープを作り、俺がそれ以外の雑務を行う。それがここでの大まかな仕事の流れだ。


「犬飼くん、次は豚骨みそが上がるから準備して」


「はい」


 お客さんは途切れないし一瞬たりとも気が抜けない仕事だが、ノルマもないので前職と比べれば天国のような仕事だ。店長の胸も目の保養になるし。

 店長が麺を湯切りしている内にチラリと時計を見ると、十三時半だった。あと一時間半働けば休憩になる。俺は昼の部最後のラストスパートだと気合いを入れ、麺をほぐすための菜箸を手に取った。

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