怖くない
♥
金髪男が柊一さんに馬乗りになって次々とパンチを放っている光景を、乃々と一緒に眺める。
柊一さん、攻撃しないつもりなのかな。恐らく相手が高校生だからって理由で攻撃しないんだ。あんなに殴られてもやり返さないなんて、やっぱり私が惚れた男は一味違うね。
「あの人、大丈夫かな」
隣に座っていた乃々が、そんなことを呟いた。
乃々は今にも泣きそうな表情で、殴られ続けている柊一さんを見ている。
まあ彼女が泣きそうになるのも無理はないかな。だって乃々がついた嘘のせいで、あんなに柊一さんが苦しんでいるのだから。でも。
「多分大丈夫じゃない? 男なんてあれくらい殴り合う方が元気だって」
「でも、あの人やられっぱなし」
乃々は柊一さんのことを『あの人』と呼ぶ。乃々は私以外の人の名前をあまり口にしない。どうしてかと前に尋ねたところ、「仲良くない人の名前を呼ぶのは恥ずかしい」と言っていた。相変わらず、乃々の気持ちは理解しがたい。
「そうだねえ。柊一さん優しいから」
「優しいとかじゃない。あれは変」
「あっはは。たしかにね。柊一さんはちょっと変だよね」
「やり返せばいいのに。そうしたら、すぐ終わるかも」
「うーん。それはどうかな。喧嘩が終わったとしても、柊一さんは不完全燃焼なんじゃないかな」
「ん、どういうこと?」
目を丸くさせて、乃々がこてんと首を傾げる。その仕草ひとつひとつが可愛くて思わず頭を撫でてやると、乃々は気持ちよさそうに目を細めた。
「分からないけど、柊一さんは今日ケジメをつけに来たんだと思う」
「どうしてそう思うの?」
「今日ここに来た時の柊一さんの顔にそう書いてあったから、かな」
今日の柊一さんは明らかにいつもと違った。いつもは現実なんてクソくらえといった顔をしているのに、今日は覚悟に満ちていた。それがただただ乃々を守りたいだけだったら悔しいから、柊一さんは自分の何かを背負って戦いに来たのだと思いたかった。
「ふーん、わたしには分からないや」
「ふふん。そうだろうね。柊一さんの微妙な変化は私しか気づかないよ」
と、ちょっとだけマウントを取ってみるが、乃々は相変わらず心配そうな顔で殴られ続ける柊一さんを見ている。
だから私は乃々の肩を抱き寄せて、頭同士をくっつける。
「きっと大丈夫だよ。柊一さんはすごい人だから」
制服越しに感じた乃々の体温は、いつもよりも少しだけ温かかった。
♥
まぶたを開くと、夕焼け空が広がっていた。綺麗な空だな……と思ったと同時に、顔中に熱を帯びた痛みを感じた。でもその痛みも、どうしてか冷たくスースーする。
なんだこれはと自分の顔を触ってみると、顔中に何かが貼り付けられていた。それを一枚めくって剝がしてみると、まだ冷たさが残る冷えピタだった。
「あ、起きた」
ポツリと落とされた綺麗な声とともに、視界に乃々ちゃんの顔が現れた。乃々ちゃんは心配そうな顔で、地面の上で仰向けになる俺のことを見下ろしている。
彼女の可愛らしい顔が銀髪とマッチしていて、間近で見ても美しかった。
「あ、ああ……乃々ちゃんか……」
そう喋ると、顔中に激痛が走った。その痛みで、俺はさっきまで金髪男に一方的に殴られていたことを思い出す。
「そういや金髪男はどうした?」
「気絶するまで降参しなかった柊一を見て、怯えながら走って逃げてっちゃった」
「そうか……ってことは乃々ちゃんのことを守れたんだな」
「うん。おかげさまで」
殴られている途中で気絶してしまったのでよく分からないが、どうやら俺は金髪男に勝利していたらしい。でも金髪男に勝てたことよりも、最後まで逃げなかった自分を褒め讃えたい。俺、初めて逃げなかったかもしれない。しかも数回しか会ったことのない女子高校生のために。俺はその達成感から、一気に体から力が抜けていくのを感じた。
「顔、痛い?」
乃々ちゃんが俺の目を真っ直ぐに見ながら、心配そうな顔でこちらをじっと見ている。
「いや、そうでもないぞ」
本当はめちゃくちゃ痛くて今にも泣きそうだが、可愛い女の子の前なのでやせ我慢をする。すると乃々ちゃんはほっとした表情に変わり、「よかった」と口にした。
「そんなことよりも、やっと目を合わせてくれたな」
さっきからずっと、乃々ちゃんと視線が合っている。
前までは一向に視線を合わせてくれなかった乃々ちゃんだが、ここに来てようやく目が合った。蓮香が前に「乃々と普通に喋るのは難しい」「乃々は誰にも心を開かない」と言っていたので、普通に目を見て会話が出来ているのが嬉しく感じた。
「うん。分からないけど、目を見ても怖くない」
「少しは俺のこと見直してくれたのか?」
「うん。ただのフリーターじゃない。柊一は私を守ってくれた人」
どうやら俺は今まで乃々ちゃんに、ただのフリーターだと思われていたようだ。まあ間違いではないし、むしろ大当たりしてるんだけどさ……まあいいか。
「あとそれもだな。俺の名前も呼んでくれるようになったのか」
呼び捨てで呼ばれていることとタメ口で話されていることには、触れないでおくとしよう。名前を呼んでくれるだけでも感謝しなくては。
「あ、そう言われてみれば。柊一って呼び方嫌じゃない?」
「全然嫌じゃないぞ。これからもそう呼んでくれ」
「うん、分かった」
素直にちょこんと頷いた乃々ちゃんが可愛くて、思わず頭を撫でてしまった。しかし乃々ちゃんは嫌がるどころか、目を細めて気持ちよさそうな顔をしている。なんだか猫みたいだ。
「どうして殴り返さなかったの?」
頭を撫でられていた乃々ちゃんが、唐突にそんなことを聞いて来た。
乃々ちゃんは言葉足らずな喋り方らしく今も主語がなかったが、恐らく金髪男との喧嘩のことを言っているのだろう。
「そうだなあ。相手が高校生ってことが一番だけど、もしも俺が金髪男を殴って勝ったとしても、乃々ちゃんに心を開いてもらうどころかもっと怖がらせちゃうと思って」
きっと俺が高校生相手に手を上げていたら、乃々ちゃんは俺のことを『高校生にも手を上げる人』だと認識して、今までよりももっと心の距離を取られてしまったはずだ。きっとその心の距離は縮まることはないし、下手すれば俺という人間が乃々ちゃんのトラウマになってしまっていたかもしれない。だから金髪男に反撃をしなかったワケだが、乃々ちゃんを守れたし、目を見て会話が出来るようになったので結果オーライだろう。
しかし乃々ちゃんは難しい顔をしながら首を傾げる。
「つまり、わたしのため?」
だいぶ簡略化されてしまったがそういう認識で間違いでもないため、俺は笑って頷いた。
「ああ、そういうことだな」
俺がそう言うと、乃々ちゃんも釣られるようにして頬を緩めた。
初めて見た彼女の笑みは、意外にも幼い無邪気さが残っていた。
「そういや蓮香はどこ行ったんだ?」
「絆創膏と湿布とマスクを買いに行った」
「あれ、また買いに行ったのか?」
「また?」
「だって俺の顔に貼ってある冷えピタも買って来てくれたものじゃないのか?」
「その冷えピタなら蓮香が家から持って来たものだよ」
「ああ、そうだたのか」
ということは、蓮香は少なからず俺が怪我をすることを予想していたんだな。意外とちゃんとしてるというか、俺のことを考えてくれているというか。まあ嬉しいからいいんだけどさ。
「ってか、なんでマスクも買いに行ったんだ?」
「柊一の顔、酷いから」
「ええ……どんな顔してるんだ?」
「痛々しく腫れてる。見てみる?」
と、乃々ちゃんはスクールバッグから手鏡を取り出して見せた。でもなんとなく、自分の腫れた顔は極力見たくなかった。見るともっと痛みが増しそうだし。
「いや、いいや」
俺が首を横に振ると、乃々ちゃんは「そう」と素直に手鏡をスクールバッグにしまった。その時、こちらに近づいて来る足音が聞こえて来た。
「おーい! もう柊一さん起きてるのー?」
その聞き覚えしかない声の方を見ると、予想通り蓮香がこちらへと歩いて来ているところだった。その手にはビニール袋が持たれていて、わざわざ俺のために買い出しに行ってくれていたことが伺える。
「あ、蓮香来た」
俺が返事をするよりも先に、乃々ちゃんが嬉しそうな声を紡ぎながら蓮香の元へと駆けて行ってしまった。まるで飼い主と久しぶりに再会した犬みたいで、俺は意図せずに笑ってしまった。
俺も乃々ちゃんと目を見て話せるようになったが、まだまだ蓮香には敵わないなと思い知らされた夕暮れの下だった。
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