俺が喧嘩をするなんて

 バクバクと高鳴る心臓を手で押さえながら、自動ドアをくぐる。


「こんにちはー」


 爽やかな挨拶をしてくれたのは、受付に居る二十代前半くらいの女性だった。

 室内には天井からぶら下がるタイプのサンドバッグや、重そうなダンベルが床に転がっている。俺の人生では関わることのなかった道具の数々に圧倒されながらも、部屋の奥には一番に目を引くものがあった。あれはたまにテレビなどで目にする、ボクシングやプロレスなどのステージとして使われるリングだ。そのリング上では、今まさに男同士が殴り合っている。バシンバシンと音を立てて殴り合う姿は、テレビで観る試合そのものだ。

 そこでようやくここが、ボクシングジムであることを再認識することができた。


「あ、あのー。今回はどういったご用件で?」


 入口で固まってしまった俺にしびれを切らしたのか、受付の女性が近づいて来た。

 フリーターで引きこもりがちの俺には非現実的に思える空間に面食らいながらも、俺はやっとのことで口を開く。


「こ、こここ、こんな俺でも一週間で強くなれますか!」


 声を裏返えさせながらの問いかけに、受付の女性だけでなくリングで死闘を繰り広げていた男性二人も訝しげな顔でこちらを見た。

 まずい。俺、今変なことを口にしただろうか。やっぱり慣れないことをするんじゃなかった。そんな後悔をしそうになっていると、受付の女性とリング上に居る二人の男性が途端に笑顔を作って「もちろん!」と声を揃えた。

 こうして俺は、乃々ちゃんに言い寄る金髪男子高校生を倒すべく、ボクシングジムに入会したのだった。


 ☆


 時は過ぎ去り、決闘の日。

 緊張から朝早くに目覚めてしまい、ずっとソワソワとした気持ちのまま夕方を迎えることとなった。

 動きやすい服の方がいいかと思い、ボクシングジムで買ったオリジナルのジャージに着替えた。上下薄紫色で腕に白色のラインが入っていて、すごくかっこいい。ちなみに上下で五千円もしたので、ジムで練習するときには元を取ろうと毎日着用している。

 ボクシングジムに入会してからというもの、毎日のように通い詰めたのだからきっと大丈夫だ。一日フリーの日はもちろん、バイトの日だって仕事が終わってからジムに行っていたもんな。絶対大丈夫だ。俺ならば勝てる。


「よし、行くか」


 時刻を確認すると、十六時ピッタリだった。ぼちぼち蓮香と乃々ちゃんの下校時間となるので、俺も家を出てちょうどいいくらいだ。

 気合いを入れるためにも頬を叩いて、俺は財布とスマホだけをポケットに入れて家をあとにした。


 ☆


 決戦の舞台である川岸に到着すると、すでに蓮香と乃々ちゃんの姿があった。コンクリートの階段に、二人並んで座っている。


「よう。お前ら」


 そう声を掛けながら近寄ると、二人は同時にこちらを向いた。しかし乃々ちゃんだけがすぐに視線を逸らして、蓮香にべったりとくっついてしまう。


「おー、柊一さん早かったですね……ってなんですかその絶妙にダサいジャージ」


「ダサいとか言うなよ。かっこいいだろ」


「ええ……私はかっこいいとは思わないけどなあ。乃々はあの紫ジャージどう思う?」


「ダサい」


 二人から言いたいように言われて、金髪男と殴り合う前に精神的なダメージを受ける。

 おいおい。そんなこと言うなよ。これ五千円もしたんだぞ……。


「まあ価値観は人それぞれですからね。柊一さんがかっこいいと思えば、きっとかっこいいジャージなんですよ」


「そう。捉え方によってはかっこいい、かも」


 なんて言い訳をしようかと迷っていると、蓮香と乃々ちゃんにフォローまでされてしまった。高校生に気を遣わせるなんて、俺はかっこわるい大人だ。


「俺のジャージをいじるのは終わりにするとして……その乃々ちゃんに言い寄って来た金髪男はまだ来てないのか?」


 これ以上ジャージをいじられないためにも話を逸らすと、蓮香はスマホで時刻を確認した。


「もう来てもいい頃なんですけどね。あっちも高校生だから、帰りのホームルームが長引いてるのかも」


「そっか。部活とか委員会とかに入ってたらもっと遅くなるよな」


「いや、部活も委員会にも入ってないと思いますよ。普通に不良してる子だから」


「普通に不良してる子……」


 普通に不良してる子ってなんだよ。俺が生きて来た二十七年間の人生で、そんな言葉とは出会ってこなかったぞ。

 それに気が付けば、最近はちょっと荒れている高校生と絡む機会が多くなった気がする。蓮香だって元ヤンと言われるやつだと思うし、乃々ちゃんも不良ではないらしいが普通の高校生とは確実に違うオーラがある。フリーターを続けているとこういう高校生たちと絡むことになってしまうのかと、ちょっとした後悔のようなものが心に芽生える。


「あ、噂をすれば来たんじゃない?」


「なに」


 蓮香が「ほら」と指をさす。その指先を辿ってみると、黒色の学ランと金髪頭がよくマッチしている身長高めの男が、大股歩きで風を切るようにしながらこちらに近づいて来ているところだった。

 その金髪男を目で捉えた途端に、俺の心臓はドクドクと鼓動を速める。手の平が汗で滲み、口が渇く。


「乃々さん! その男が乃々さんの婚約者ですか!」


 金髪男は大声で叫びながら、俺のことを指さす。

 ああそうだよ。文句あんのか。と心の中だけで返しておく。

「うん」と乃々ちゃんが頷くと、金髪男は俺の目の前に立つなり、こちらにガン飛ばして来る。眉間に皺を寄せて顎をしゃくれさせ、睨み慣れている男のガンの飛ばし方だ。

 ああ? やんのかコラ。と心の中で対抗する。


「高校生くらいなのかと思ったらちゃんと大人じゃねえか。おいアンタ。歳はいくつだ」


「二十七歳です。あなたはいくつですか」


「俺は十八だよ。文句あんのかコラ」


「いえ、ないですけど」


 至近距離で睨まれるもんだから、高校生相手に敬語が出てしまった。

 でもこれではダメだ。気持ちで負けたら、勝つことなんて出来ない。そうジムで散々教えられてきたのに。


「二十七で高校生に手を出すのかよ。おっさん」


「十八歳は法律で成人だと決められているので、問題はないかと」


「問題ありありなんだよ。俺、乃々さんとお付き合いしたいんだけど、譲る気はないワケ?」


 ずいとこちらに顔を寄せて、金髪男はさらに圧を掛けてくる。だから俺は得意の右アッパー――の代わりに、一歩だけ後ずさる。

 もしここで乃々ちゃんを譲りますと言えば、俺はこの金髪男に殴られずに済むのだろう。しかし横の階段を見ると、蓮香と乃々ちゃんがこちらに期待の眼差しを送っている。その眼差しが「がんばれ!」などの応援ではなく、「早く殴り合わないかな」という期待であることに、この時の俺は余裕がないため気付かなかった。

 蓮香と乃々ちゃんの前でかっこわるい姿は見せられない。だから俺はもう一歩だけ男から距離を取って、胸を張る。


「ああ、譲る気なんてない」


 い、言えた。色々なことから逃げて来た人生だったが、今日は逃げずに言えた。今のはかっこよかったんじゃないだろうかと蓮香たちの方を見ると、彼女たちは親指を立ててくれた。それだけで、バクバクと高鳴っていた心臓も落ち着いて来る。


「あーそうかよ。じゃあどっちが乃々さんに相応しい男なのか、殴り合いで決めなくちゃなあ」


 金髪男はニヤリと笑うと、自らの拳と拳をくっつけて威嚇してくる。だから俺も「ワンワン!」と威嚇してやろうかと思った。


「どっからでもかかってこい。お前に乃々ちゃんは渡さん」


 一週間前の俺ならこんな強気な言葉は出せなかっただろうが、ボクシングジムに通い詰めた自信が俺をこうさせた。もうどうにでもなれ。なるようになる。その一心で、金髪男に向かって挑発的な手招きをしてみせる。

 すると金髪男は怒りで顔を歪め、「どうなっても知らねえぞ」と言葉を吐いてから、思いきり腕を振りかぶった。

 あ、その勢いはやばいだろ。そう頭で考えた時には、男の拳が俺の頬にめり込んでいた。俺はその衝撃で二、三歩後ずさるが、なんとか足を踏ん張って倒れなかった。

 でも痛い! すごく痛い! 素手で殴られるのってこんなに痛いのか。いつもはグローブで殴られているから、拳のごつごつとした痛みに泣きそうになる。


「そ、その程度か。今の不良ってもんは貧弱だな」


 強がってそんなことを言って見せると、金髪男は怒りで顔を真っ赤にさせた。


「おいおっさん。あんまり俺をあまく見るなよ。俺は不良の間で『裏路地の伝説』として有名なんだぞ。もう容赦しないからな」


 金髪男はそう言うと、また腕を振りかぶり、俺の顔面を思いきり殴る。今度は左手で、右手で、左手で……次々と顔面を捉えたパンチが飛んでくる。その度に鈍い音が耳に響くが、俺はそれをノーガードで耐え続ける。


「お、おいおっさん! どうして攻撃してこねえんだよ!」


 俺が全く攻撃をしないことに動揺したのか、金髪男は殴る手を止めた。

 ああ……顔がジンジンとして熱い。これ、絶対にあとで腫れるやつだ……。生きて帰れたら湿布買わなきゃな……と思いながら、俺は精一杯の強がりで笑顔を見せる。


「だ、だって大人が高校生を殴れるワケないだろ……」


 金髪男は「んなっ」と驚きで目を見開く。

 金髪男との殴り合いが決まった時、最初から俺は攻撃するつもりなんてなかった。どうやって攻撃をせずに金髪男に勝つか。それだけを考えて、ボクシングジムに入会した。だからこの一週間、俺はボクシングジムで防御だけを習った。どうやったら相手の攻撃を軽減することが出来るか。それだけを教えて貰うために、高い入会費を払って一週間ボクシングジムに通い詰めたのだ。


「こんのォ。舐めやがって!」


 金髪男は額に血管を浮かべると、今度は足を狙ってローキックを放ってくる。俺はやられるがままに、その場に倒れてしまう。すると金髪男が俺に馬乗りになって、顔や胸に次々と手加減を知らないパンチを放ってくる。

 痛い。痛い。痛い……もう今すぐにでも降参してしまいたい。逃げ出してしまいたい。


 そう言えば、俺の人生は逃げてばかりだった。高校では勉強が面倒すぎて、学力は下の下だった。でも高校を卒業して働く勇気はないからと、適当なFラン大学に入学した。大学に入学したらちゃんと勉強するから。そう親に約束をして入った大学でも、結局勉強から逃げて遊び呆けた。その結果、もちろんいい就職先なんてなかった。俺が入ったのはブラックギリギリの営業の仕事。高校、大学と遊んで過ごしたから、もうそろそろ真面目になろう。そう思ったのに、営業の成績が伸びずに上司から怒鳴られる毎日。上司と顔を合わせるのも、会社からの電話の着信音もトラウマになり、精神的に参ってしまい社会人からも逃げ出した。

 ずっとずっと逃げて来た俺の人生。だけどもう逃げたくない。ここで逃げたら、俺は本当に自分を信用出来なくなると思った。


「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 殴られ続けながらも、自分から出たとは思えない声が口から出て来た。

 その咆哮に金髪男は面食らいながらも、顔を引きつらせながら俺に拳を浴びせ続ける。

 痛い。けど逃げはしない。もう俺は、逃げないと決めたんだ。

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