俺のせいかよ
温泉から上がり、ぼちぼちいい時間だからと俺たちは旅館に戻った。ちょうど部屋に戻った三十分後くらいに、夕飯が運ばれてきた。今日の夕飯はアンコウ鍋だった。俺と蓮香は温泉の感想を言い合いながら、アンコウ鍋をつついた。
夕飯も食べ終わり、あとは眠くなるのを待つだけだ。俺と蓮香は部屋の窓際にある椅子に腰掛け、テーブルを挟んで向かい合わせになり、窓の外を見ながら穏やかな時間を過ごす。ここの部屋は二階にあるので、窓の外を見ると夜の温泉街の様子が見渡せた。
「なんだか夢みたいです」
蓮香は窓の外に視線をやりながら、そんなことを言い出した。彼女の手には陶器のマグカップが持たれている。このマグカップは俺の前にも置いてあり、お互いにコーヒーが入っている。俺はブラックコーヒー、蓮香は砂糖多めのコーヒーだ。
「どういうことだ?」
俺が首を傾げると、彼女はこちらを向いて目を細めた。
「昨日家を飛び出した時にはどうなるかと思いましたけど、好きな人と夜逃げして、美味しいもの食べて、熱い温泉にも入って。まるで夢見てるみたいです。こうやって柊一さんとゆっくりできるのも、ずっと一緒に居られるのも、すごく幸せです。こんな時間がずっと続けばいいのにって思っちゃいます」
それを言い終わると、蓮香は照れた様子で頬を桃色にさせた。
たしかに蓮香の言う通り、ここに来る前はこんなにずっと一緒に居られなかった。俺はバイトがあるし、蓮香は学校も家庭もある。こうやってゆっくりと二人の時間が取れるのは、初めてのことだ。しかも俺の隣にはずっと蓮香が居てくれる。そう思うと、途端に心が温かくなっていくのを感じた。この温かさを久しぶりに感じた気がする。俺はこの温かさの正体がなんなのか知っていた。俺はその温かさの正体を口に出して、彼女に伝えなくてはいけないと思った。
「たしかに、すごく幸せだな」
久しぶりに、心から幸せだと思った。朝起きて、食事をして、遊んで、その全ての隣には蓮香が居てくれる。とても尊い――幸せな時間だ。
俺が照れながらも『幸せ』と言葉に出すと、蓮香は笑顔から表情を一転させて目を大きくさせた。
「今、幸せって言いました?」
「ああ、幸せって言った。でも今だけじゃなくて、蓮香と一緒に過ごす時間の全てが幸せだ。蓮香が隣に居てくれるだけで、すごく幸せな気持ちになれる。だから――」
そう言って一呼吸置くと、俺は胸がくすぐったくなって笑顔を浮かべる。
「ありがとう蓮香。蓮香のおかげで、すごく幸せになれたよ」
きちんと言葉にして伝えると、蓮香は大きくさせた瞳を潤ませた。かと思えば、今度はボロボロと大粒の涙を流し出す。彼女は手の甲で涙を拭いながら、ひっくひっくと声をしゃくれさせて泣き始める。
「よかったでず。柊一さん、ずっと暗くて、生きる意味が分からないて言ってて……ひく……昔の自分を見てるみたいで心配でした。だから五年前の私を変えてくれたように、私も柊一さんを変えられればいいなって……幸せに出来ればいいなって……ひっく……ずっと思ってたんです。だから柊一さんの口から初めて『幸せ』だって聞けて……安心したら涙が出て来ちゃいました」
蓮香は鼻水をすすりながら話し終えると、こちらに泣き顔を見せながら「本当によかったでず~」とわんわんと泣き始めてしまった。
蓮香はよく笑う子だと思っていたが、恐らく彼女は感情を表に出すのが得意なのかもしれないな。幸せな時には笑ってくれて、嬉しい時には嬉し泣きしてくれて……本当に素直でいい子なんだなと、改めて気付かされる。
「あはは。そんなに泣いてどうすんだよ」
「知らないですよ。全部柊一さんのせいなんですから」
「俺のせいかよ」
「そうですよ。私が泣いてるのも、幸せなのも、全部柊一さんのせいです」
俺は笑いながら、蓮香は泣きながら言葉を交わす。互いに行き来する言葉すらも、今では愛おしく感じる。
「俺が幸せなのも蓮香のせいだよ」
感情のままにわんわんと泣き続ける彼女が可愛くて、俺はそう言い返しながら腕を広げてみせた。すると蓮香は迷うことなく、俺の胸へと一直線に飛び込んで来る。華奢な体も温かな体温も、全てが蓮香のものだった。
悩みは尽きない逃避行生活だが、彼女とならどんな壁でも乗り越えられる。蓮香を抱きしめていると、そんな自信が沸々と湧き上がった。
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