硫黄の匂い
朝ご飯を食べ終わり部屋で小休憩したのち、俺たちは温泉街に躍り出た。ちなみに蓮香の口車に乗せられ、今は俺も浴衣姿になっている。
昼間の温泉街は夜中と違って旅行客の姿で賑わっており、まるでお祭りにでも来たかのような気分になる。
「あ、柊一さん! あそこに美味しそうな肉まん屋さんがありますよ!」
蓮香は俺の手を引きながら、近くにあった肉まん屋さんを指さした。手を繋いでいるというよりも、愛犬のリードを引いているような感覚だ。それでも彼女と繋がっている手はとても温かく、握っているだけで安心してしまう。
「さっき朝ご飯食べたばかりじゃないか?」
「お菓子ですよ。ほら、十時のおやつって言うじゃないですか」
「まあ時間も十時過ぎたくらいだけどさ……お菓子にしては肉まんは重いんじゃないか? もうすぐで昼ご飯の時間だし」
「もー、そう言わずに食べましょうよー。ほらほら、いい匂いだってしますし」
蓮香は笑顔のまま、強引に俺の手を引っ張る。俺は引きずられるようにして、肉まんが売られている屋台の前に連れて来られていた。
「いらっしゃい! おっ、お似合いのカップルさんだね。仲良しカップルにはサービスしちゃうよ」
五十代くらいの小太りの男性が、俺たちを見るなり営業スマイルを張り付けた。恐らくここのお店の店主さんなのだろう。
「うふふー、そうなんです。私たち仲良しカップルなのでサービスしてください!」
「お、ノリのいい彼女さんだね。それじゃあサービスして、一個三百円のところを二百円にしちゃおうかな!」
「そんなに! やったー! じゃあ肉まん二つで!」
蓮香と店主がノリノリで会話を交わす。二人のテンションに着いて行くことが出来ずに会話に乗り遅れていると、どうしてか蓮香は俺の分の肉まんも注文していた。しょうがないなあ……でもそんなところが蓮香の可愛いところだ。そう思うことにして財布を出そうとすると、蓮香がそれを手で制止した。何事かと思って蓮香の方を見ると、彼女はいたずらな笑顔を浮かべた。
「ここは私が奢りますから」
「え、いいよ。高校生に出させるワケにはいかないだろ」
「私のワガママだからいいんですって。たまには奢らせて下さいよ」
蓮香はそう言うと、巾着から財布を取り出してお会計を済ませてしまった。店主から熱々の肉まんを受け取り、俺たちは屋台をあとにした。
「まじでいいのか、奢って貰っちゃって」
「もちろんです! ネックレスや日頃のお返しだと思って下さい」
そう言って笑う彼女の鎖骨辺りには、今も赤色のハートのペンダントが光っている。どうやらずっと着けてくれているらしい。
「じゃあお言葉に甘えて。ありがとな」
こういう時は素直に奢られておくべきだな。初めて蓮香に奢って貰った物なので、よく味わって食べなければ。
「はい! それじゃあいただきましょー」
「いただきます」
二人同時に肉まんを頬張る。ジュワっと肉汁が口の中に広がり、タケノコの歯ごたえなんかも相まって絶品だ。
「これは美味いな」「おいひいれすね」
二人同時に率直な感想を漏らした。この肉まんは、『美味しい』以外の語彙力を失う力を持っているらしい。
こんな美味しい肉まんなら、昼食前に関わらずペロリと平らげてしまいそうだ。その一心で、俺と蓮香は無言で肉まんを頬張り続ける。会話はないものの、お互いの手は繋がったままだ。
このまま互いに無言のままでも気まずさは感じないが、俺はふとある疑問が思い浮かんだ。
「そう言えばさ、蓮香ってどうして中一で不良になったんだ? こう、きっかけみたいなことがあったのか?」
思ったことを率直に尋ねると、蓮香は吹き出すようにしてむせた。ごほごほと咳をしながら、蓮香は涙目をこちらに向ける。
「ど、どうして今そんなことを聞くんですか」
「いや、なんとなく気になっただけだけど。せっかく付き合うことになったんだし、蓮香の過去ももっと知りたいと思って」
「そ、そういうこと平気な顔して言うんですね……ずるいです」
蓮香は頬を赤らめながら、恨めしそうにこちらを見た。それに彼女は「あと不良だったワケじゃないです」と頬を膨らませた。どうやら恋人同士になっても、蓮香は不良だったことを認めないらしい。
「それで、どうなんだ?」
俺がもう一度問いかけると、彼女は観念したようにため息を吐いた。
「はあ。まあ、きっかけはありましたね」
「お、やっぱりあったんだな」
「でもそんなに面白いきっかけでもないですよ?」
蓮香はそう前置きをしてから、遠い過去を見るような瞳で話し始める。
「私の両親、二人とも共働きだったんですよ。それに私は一人っ子だったので、家でお留守番している時間がすごく長かったんです。両親とも日付が変わるまで家に帰って来ない時もありました。それでですかね、私すごく寂しかったんですよ。だから両親に構って貰おうとして、分かりやすくグレてみたんです。それで両親の気を引こうとしてみたんですかね」
あの頃を懐かしむように話す蓮香は、おかしいですよねと笑った。しかし俺はちっともおかしくないと首を横に振り、彼女の話に耳を傾ける。
「でもその作戦も失敗しました。お父さんもお母さんも私に呆れて、余計に放っておかれるようになりました。それに当時の担任の先生からも呆れられて、相手にされなくなりましたね。だから誰にも構って貰えず、誰にも心配されないことが悲しくて、あんなに人生に絶望してたんです。私は誰からも心配されない、世界で一番寂しい人間なんだって」
蓮香は両親から気を引こうとして、寂しくて、金髪少女へと転身したのか。その理由も悲しいものだなと思い、彼女に掛ける言葉が見つからないでいると、蓮香は途端に笑顔を作った。
「でもそんな時に、柊一さんに出会ったんです。柊一さんは初対面の私にも真摯に向き合ってくれて、心配までしてくれて……本当に救われました。大人になったら結婚してくれるっていう約束だけが、私の心の支えでした。あ、当時は乃々とも仲良くしてたので、柊一さんとの約束と乃々だけが心のよりどころだったんです」
五年前のあの日に交わしたなんでもないような約束を、彼女は本当にずっと覚えていたのだろう。俺は適当にあしらったつもりで交わした約束だったが、蓮香からしてみれば生きていくための心の支えとなていたのだ。そう考えると、俺はどうしてあの時に適当にあしらってしまったのかと、今になって酷く後悔してしまう。
「あ、柊一さん。そんな顔しないで下さい」
蓮香は俺の顔を見ただけで、何を考えているのか当ててしまったのだろう。しかし蓮香は俺の顔を覗き込むなり、にっと歯を見せて笑った。
「おかげさまで、今はものすごく幸せですから」
そう言って本当に幸せそうに微笑む蓮香。
俺はその一言に救われた気持ちになり、蓮香という尊い存在を道の真ん中でこれでもかと抱きしめた。これからは真摯に彼女と向き合うと心に決めて。
☆
あれから昼ご飯を食べ、それからも適当に温泉街をぶらぶらとしていると、あっという間に日は沈んでしまった。午後の十八時からは泊まっている旅館で夕飯が出るらしいので、俺たちはそれまで温泉に入ることにした。
泊まっている旅館には温泉に入れる施設がないので、温泉街で一番口コミが良かった温泉に入ることにした。
もちろん男女で分かれているので、蓮香とは更衣室前でバイバイした。更衣室で裸になり、支給されたハンドタオルを一枚持って、体を洗ってから露天温泉に入る。少し熱いくらいの湯船に浸かりながら、俺は深く息を吐いた。逃避行生活の疲れを吐き出すように。
「久しぶりの温泉気持ち良すぎだろ……」
周りには温泉で疲れを癒す人々の姿があったが、思わず癖で独り言を呟いてしまった。
でも今までの疲れが全て吹き飛んでしまうくらい、温泉が気持ちいいのだ。
湯船にある岩を背もたれに体重を預けて、俺は目をつむる。こうして一人で居ると、色々なことを考えてしまう。
まず最初に頭に思い浮かんだのは、蓮香のご両親のことだ。俺は蓮香のご両親が大激怒してると聞いてビビッてしまい、こんなに遠くまで逃げて来てしまった。きっと蓮香のご両親が俺に抱いている印象は最悪なものだろう。蓮香の両親が来ると知っては彼女を連れて逃亡して。定職に就いていなくて。まだ高校生の娘をたぶらかせて。そう考えただけでも、俺は蓮香のご両親に合わせられる顔がなかった。だって全て真実なのだから。でもこのまま一生逃げ続けるわけにはいかない。いつか蓮香のご両親と顔を合わせなければいけない時が来る。そう思うと、憂鬱で仕方がない。
「あとは店長か」
次に心配しなければいけないことはバイトだ。店長にはしばらくバイトを休む旨は昨日の内に伝えたので問題はないが、いつまで逃避行生活を続けるかも分からないのでバイトに復帰できる日を伝えられないことが問題だ。実際、店長からは「いつまで休むんだ?」と聞かれているが、まだそのメッセージに返答できないでいる。それにどうして休むのかも伝えていないから、きっと店長は俺のことを心配しているはずだ。店長は優しい人だからな。
あとはお金のことやらなにやら、色々な心配事はある。逃避行生活というものは、こんなにも考え事が尽きないのだな。フリーター生活をしている時は自分のことだけを考えていればよかったのに、今は色々なことを気にしなくてはいけないのだから大変だ。
「はあ……慣れないことはするもんじゃないな」
でもここまで来てしまった以上は、蓮香のことを第一に考えるしかない。もしも蓮香がこの生活を嫌がれば、俺は家に帰るしかなくなる。それかお金が尽きた時か、もしくは蓮香の両親に会う覚悟が決まった時かが、この逃避行生活の最後だ。
しかしとりあえずは、今の暮らしを頑張るしかない。しっかりしている蓮香も一緒に居てくれていることだし、何とかなるだろう。俺はそうプラスに考えることにして、鼻から息を吸って深呼吸した。温泉特有の硫黄の匂いが、今は心地よく感じた。
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