朝のひととき

 夜行バスに揺られること三時間半。俺たちの乗った夜行バスは、深夜の温泉街に到着した。

 深夜の温泉街には明かりがぽつぽつと点いた旅館が並んでいるが、道に人の姿はなく、夜行バスから下りた人のみが辺りを賑わせていた。


「柊一さん、起きてください。自然がいっぱいで空気が美味しいですよ」


 バスから下りるなり、仮眠を取ったからか元気そうな蓮香がはしゃぎ声を上げた。高校生ともなると、たった三時間の睡眠だけでも疲れが取れるのだろうか。


「起きとるわ」


 一方の俺は眠い目を擦りながら、精一杯の言葉を返す。椅子に座った態勢の中で、たった三時間の睡眠だけでは疲れが取れるはずがない。ニ十歳後半ともなると、もう若くはないなと思い知らされる。

 体にダルさを感じるなか、俺はスマホを開いてあることを調べる。


「ん、なに調べてるんですか?」と蓮香がスマホを覗き込んでくる。


「今の時間からでもチェックインできる旅館を探してるんだよ」


 今の時刻は午前二時。この時間になると、ほとんどの旅館はチェックイン出来なくなる。でも二十四時間チェックイン可能な旅館もあると聞いたことがあったのだ。だから余裕ぶって今の今まで旅館を予約していなかったのだが……。


「あれ、ここら辺の旅館は今からじゃチェックイン出来ないんだけど」


 そこでようやく目が覚める。嘘だろと思いながら、慌てて今から泊まれそうな旅館を探してみる――が、やはり今の時間からのチェックインは厳しそうだ。しかしこの寒さの中で朝を待つとなると、死の恐れがある。だから死に物狂いで検索を掛けていると、蓮香がちょんちょんと俺の肩をつついた。


「あそことかどうですかね」


 そう言って蓮香が指をさしたのは、近くにあったピンク色の建物――ラブホテルだった。どうしてこんなところにラブホテルがあるのかという疑問よりも先に、俺の頭はピンク色の景色になりパニック寸前になる。


「そ、そそそ。それはまだ早いだろ。俺たちまだ付き合って一週間も経ってないんだぞ?」


 早口でまくし立てると、蓮香がきょとんとした顔になる。まさか蓮香の中では、もう『そういう行為』をしてもいい頃合いだと思っているのだろうか。

 いきなりパニックになった俺を見て、蓮香は自分が指差した方をもう一度見た。その瞬間に、蓮香の顔がボッと赤くなった。


「ち、違いますよ! 私が言ってるのはその隣の旅館です!」


「え?」


 真っ赤な顔の蓮香がもう一度力強く指をさす。その指の先を辿って行くと、ラブホテルの近くに小さな旅館があった。その旅館の前には、『二十四時間チェックイン可能です』と書かれた立て看板が置かれている。俺は途端に恥ずかしさを覚え、顔が熱くなるのを感じた。


「そ、そうだよな! そんなワケないよな! よし、あそこの旅館に行こう! 蓮香、よく見つけてくれた!」


 恥ずかしさと疲れから変なテンションになり、やけくそになって蓮香を置いて旅館へと向かう。その後ろで蓮香は顔を真っ赤にしながらも、「もう」と言いながら俺のあとを着いて来てくれた。



 結局、蓮香が見つけてくれた旅館にチェックインすることが出来た。

 案内された部屋は俺の部屋の二倍くらい大きく、二人で生活するには充分すぎる大きさだった。

 俺は荷物を整理し終えるなり疲れが抜けずに一人で寝てしまったが、蓮香は興奮のあまり眠れなかったらしい。ちなみに俺と蓮香の布団はぴったりとくっついていたが、もう彼女とは同じベッドで寝たことがあったので何も気にならなかった。

 そうして迎えた朝。オールをした蓮香はまだまだ元気で、寝起きの俺は寝ぼけ目を擦りながら、部屋に運ばれてきた朝ご飯を食べることとなった。


「おー、美味しそうだな」


 部屋に運ばれてきた朝ご飯はお膳に乗っていて、白米、カレイの煮物、つみれ汁、漬物、と旅館らしい日本食だった。

 昨日の夕方にバイト先で食べたラーメンを最後に何も食べて居なかったので、もうお腹がペコペコだ。


「本当に美味しそうです。私、日本食好きなので嬉しいです」


 そう言って微笑む蓮香は、いつの間にか旅館の浴衣に着替えていた。そんな彼女の鎖骨の真ん中には、俺がプレゼントした赤色のハートのペンダントが光っている。

 彼女は運ばれてきた朝ご飯の写真を何枚か撮ると、嬉しそうな笑顔のまま手を合わせた。向かい合う彼女の笑顔に見惚れそうになりながらも、俺も慌てて手を合わせる。二人で「いただきます」と声を揃えてから、箸を手に取った。俺は白米の茶碗を手に取り、蓮香はお吸い物から手に付ける。朝の静けさのなか、二人は何も話さずに朝ご飯を食べ進めていると。


「朝ご飯を食べたあとはどうします?」


 蓮香がそんなことを尋ねた。

 朝ご飯を食べたあとか。蓮香の両親からの逃亡中とは言え、せっかく温泉街に来たのだから遊んでいくのもアリかもしれない。


「じゃあ温泉街でもブラブラするか」


「いいですね。街ブラってやつですか」


「まあ、そういうことになるのかな?」


 街ブラの意味があまり分からずに曖昧な返事をすると、蓮香は「ふふ」と笑った。その笑顔がとても幸せそうだったので、俺まで笑顔が移ってしまった。


「明るい内は温泉街をブラブラして、夜になったら温泉に入る感じですか?」


「あー、それもいいな。せっかくの温泉街なんだし、温泉に入らなくちゃだよな」


 正直、この旅館に泊まる料金だけでも俺の全財産がなくなってしまうのではないかと心配になるが、どうせなら蓮香と心ゆくまでこの逃避行生活を楽しみたかった。この逃避行生活で貯金がなくなる覚悟をしながら、俺はカレイの煮物を口に運んだ。


「やった。絶対ですよ。久しぶりの温泉楽しみだ~」


 蓮香は目に見えて楽しそうな表情をしながら、漬物に箸を伸ばす。彼女がきゅうりの漬物を食べると、ポリポリという音が聞こえて来た。


「きっかけはなんであれ、楽しい旅行にしような」


 俺がそう言うと、蓮香は元気よく「はい!」と頷いた。一睡もしていないのに元気だなと蓮香の若さを羨ましく思いながら、俺はお吸い物をずずっとすすった。

 二人しか居ない部屋で向かい合って食べる朝ご飯は、とても尊い時間に思えた。

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