第四章 愛の逃避行

夜逃げ

 店長と乃々ちゃんに交際の報告をした次の日。事件は起こった。

 一日のバイトを終えて、クタクタになって家に帰宅した。今日はコンビニ弁当をささっと食べて、ぱぱっと風呂に入ってすぐに寝よう。コンビニ弁当を電子レンジに入れて温めスタートのボタンを押すと、ポケットに入っていたスマホがブルルと震えだし着信音を鳴らし始めた。

 誰からだろうと思いながらポケットからスマホを取り出すと、画面には『津田蓮香』の名前が表示されていた。蓮香とは電話ではなくメッセージでやり取りをしているので、何の用だろうかと疑問に思いながらスマホを耳に当てる。


「もしもし?」


 電話に出たと同時に、スマホからは「はあ、はあ、はあ」という蓮香の荒い息遣いが聞こえて来た。


「あ、柊一さん。今大丈夫ですか?」


「あ、ああ。大丈夫だけど。蓮香から電話なんて珍しいな」


「ちょっと急用だったので電話しちゃいました」


 そう言う蓮香の声は、切羽詰まったかのように早口だった。


「どうしたんだよそんなに慌てて」


「えっとですね。ついさっきお父さんとお母さんに柊一さんと付き合うことを話したんですよ。それで柊一さんがどんな人かを話したら、柊一さんと付き合うことを猛反対されちゃって……」


 蓮香は親に俺と付き合うことになったと話したのか。まあでも、二十七歳にもなって定職にも就かずにフリーターをしている男と高校生の娘が付き合っていたら、どんな親でも反対するよな。反対されたことは少しだけショックだが、これは仕方のないことだ。

 でもまだ結婚するワケではないのだから、蓮香の両親なんて無視しておけばいいだけの話だ。まだ付き合い始めて三日しか経っていないのだから、まだ蓮香の両親に会うタイミングではない。蓮香の両親に会うのは、結婚という選択肢が生まれたらでもいい。そう余裕ぶっていると――


「でもどうしても柊一さんと付き合いたいってワガママ言ったら、お父さんとお母さん大激怒しちゃって。「今すぐその男に会いに行く」って言って出かける準備を始めたんです」


「え、」


 大激怒している蓮香の両親が今すぐに俺に会いに来る? いやいやいや。だって今の時刻は夜の九時過ぎ。こんな時間にも関わらず家に来るなんて、相当怒っているのだろうか。俺よりもグンと年上の大人に怒られる……そう思考すると、社会人の時に毎日怒鳴り散らかしていた上司のことを思い出して冷や汗が出てきた。社会人時代のトラウマが、俺の体を震わせた。


「ま、まじか……だって蓮香の両親は俺の家の住所を知らないだろ」


「それが申し訳ないんですけど、教えちゃったんですよ。柊一さんの家の住所。すごい勢いで怒られたんで、つい」


 電話越しに「ごめんなさい」という蓮香の声が聞こえて来た。


 でも言ってしまったもんは仕方がない。住所を知られてしまった以上、ここに蓮香の両親が来るのも時間の問題だろう。


「それで、蓮香は今どこに居るんだ?」


「柊一さんを認めてくれない親にムカついて家を飛び出して来たところです」


 だからそんなに「はあはあ」と苦しそうな息遣いをしているのか。しかしそれを聞いて、俺はいいことを思いついてしまった。でもその選択をしてしまうと、また逃げ癖がついてしまう気がした。だから出来るだけその選択肢は取りたくなかったが――


「どうしましょう。このままだと私たち、別れなくちゃいけないんですかね」


 その蓮香の切ない声を聞いて、俺は決心した。

 社会人時代のトラウマと戦いながら蓮香の親と対峙して交際を認めてもらうまで頭を下げるか、俺が得意な逃げを選ぶか。立ち向かうか逃げるかの二択しかないなか、俺はどちらの選択肢にするのかを決意した。


「蓮香、今からイルミネーションデートの時に集まったバスターミナルに来れるか?」


「一時間くらい掛かっちゃうと思うんですけど、行けないことはないです」


「それじゃあ今からそこのバスターミナルに集合で」


「分かりましたけど、どうするつもりですか?」


 その不安そうな蓮香の声に、俺は堂々とした口ぶりで告げる。


「そこから夜行バスに乗って遠くに行こう。蓮香の両親が追って来られない場所まで遠くに」


 立ち向かうか逃げるかの選択肢で、俺は迷わず逃げることを選んだ。

 だって社会人時代のように俺よりもぐんと大人な人に怒られると思っただけで、手が震えて冷や汗が出てくるのだから仕方がない。

 逃げる選択をした情けない彼氏だが、蓮香は迷わずに「分かりました」と言ってくれた。

 そこで通話が切れると、俺は額に滲んだ冷や汗を拭ってから遠出をするための準備を始めた。

 せっかく乃々ちゃんを守る時に逃げなかったのに、恋人の前で逃げてしまえばあの時の決心が台無しだ。そう思っても社会人時代のトラウマがある以上、俺は立ち向かうという選択肢を選ぶことは出来なかった。



 あのあと、バスターミナルで蓮香と落ち合った。そこで今の時間からでも出ている夜行バスを予約した。行き先はここからバスで三時間程の場所にある温泉街。特に温泉街を選んだ理由はなく、今からすぐに出発する夜行バスを選んだだけだ。

 俺が通路側の席に、蓮香が窓側の席に座った。夜行バスだからか車内はとても静かで、出発したばかりだというのにいびきのような音も聞こえてくる。


「わあ……ほんとに出発しちゃった」


 窓を見ながら、蓮香がそんなことを口にした。

 二人で遠くに逃げると決まったことも、温泉街に行くと決まったことも全て一時間の間での出来事だった。まさかここまで大事になるなんて、蓮香自身も思ってもいなかったのだろう。


「出発しちゃったな。でも蓮香は何も心配しなくていい。お金は全部俺が出すし、服とかパジャマも全部買ってやる」


 蓮香は感情的になって家を飛び出して来たと言うだけあって、スマホと財布しか持っていなかった。もちろん今から始まるのは逃避行。蓮香の両親から身を隠すために、何日か逃げた先に泊まって行く予定だ。


「お金の件は迷惑かけます。でも柊一さん、バイトは大丈夫ですか?」


「うっ……まあそれは、あとで店長に事情を話しておくよ。それよりも心配なのは蓮香の学校だ。何日か学校を休むことになるけど大丈夫か?」


「卒業に必要な出席日数は稼げてるので大丈夫ですかね。でも心配なのは乃々ですね。あの子、私が居ないと一人になっちゃうので」


「あー、そっか。乃々ちゃん大丈夫かな」


「大丈夫だと思いますよ。私が学校に行かないって知ったら、乃々も学校を休むと思います」


「乃々ちゃんは出席日数足りてるのか?」


「足りてますね。卒業式までフルで休めるくらいには出席日数稼げてるかと」


「そうなのか。それはよかった」


 これでバイト先の心配も蓮香の学校の心配もなくなった。あと心残りなのは――


「蓮香のご両親、蓮香が家出したって知ったら心配するよな……」


 蓮香の両親が家に来ると知った時には逃げることに必死でなんにも考えていなかったが、いざ夜行バスに乗って安心するとそんなことを考えてしまう。だって親からしたら、自分の娘が見ず知らずのフリーターの男に連れ去られるんだぞ。しかもこんな夜も深まる時間に。控えめに考えて、警察沙汰になってもおかしくはない。

 警察。その二文字が頭に浮かぶと、俺は思わずしまったと頭を抱えた。そんな俺を見て、蓮香はケタケタと笑った。


「心配しないと思いますよ。中学生の時なんか一週間も家出してた時があるので」


 慰めには強すぎるエピソードトークだが、たしかに蓮香は元不良だ。両親もこれくらいの家出には慣れてる可能性があるので、警察沙汰にはならないかもしれない。そう思うことにしておこう。


「そ、そっか。そうだよな」


 自分に言い聞かせるように頷くと、俺は頭を抱えるのをやめて「ふう」と息を吐きながら座席に体重を預けた。


「そういうことなら安心だわ」


「ふふ、意外とチョロいですね」


「チョロくないわ」


 俺がそうツッコむと、蓮香はまたケタケタと笑った。色々な心配をする俺の一方で、蓮香はどこか楽しそうだ。


「蓮香、なんだか楽しそうだな」


 思ったことを言ってみると、蓮香は目を細めたまま足をぷらぷらとさせ始めた。


「だって好きな人と夜逃げなんてドラマみたいでいいじゃないですか」


 どうやら蓮香はこの状況を夜逃げだと思っているらしい。でもたしかに今は夜だし、夜逃げという表現で間違いはないのだが。俺的には、家出と夜逃げを足して二で割ったような感覚だ。

 でもまあ蓮香が楽しんでくれているのなら俺も安心だ。半ば彼女を無理矢理連れ出して来たからな。もしも嫌がられていても、今から蓮香のご両親の元に引き返す勇気なんて持ち合わせていないワケだし。

 そう安堵すると、今日のバイトやらなにやらの疲れがどっと襲い掛かって来た。勝手に瞼が落ちそうになるなかで、俺は蓮香の頭を撫でる。蓮香が嬉しそうに目を細めた。


「こんな情けない男に着いて来てくれてありがとな」


 口をついて出たセリフだったが、蓮香は勝ち気な笑顔で「当たり前です」と言ってくれた。その彼女らしい一言に満足した俺の意識は、自然と暗闇に落ちて行った。

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