幸せという感情

 ドンドンドン! 何かを叩くような荒々しい音で目が覚める。ゆっくりと瞼を開くと、旅館の部屋の天井が広がっていた。スマホで時刻を確認すると午前七時。まだ全然寝れるじゃないか。そう思ったのだが、まだドンドンと何かを叩く音が聞こえてくる。


「なんですか、この音」


 隣で寝ていた蓮香もこの音に起こされて、寝ぼけ目を擦りながら体を起こした。俺もまだ寝たい気持ちを抑えて、体を起こす。辺りを見回してみても、音の正体が分からない。


「なんなんだ、この音は」


「どこから鳴っているんですかね」


 寝起きの顔をお互いに見せ合いながら、俺たちは首を傾げた。

 その間も音は鳴りっぱなしだ。ドンドンドン。一体何なんだ、この音は……俺たちは寝起きの頭でそう考えると、二人同時に何かに気が付き、顔を合わせる。


「ドアか」「ドアじゃないですか?」


 同時に思い付き、ドアの方を見る。そして俺たちはまた顔を合わせて、怪訝な表情を向け合う。


「誰だろうな」


「分からないです。でも旅館の人じゃないのは確かですよね」


「ああ、旅館の人だったらもっと優しくノックするよな」


「はい。ということは、別の誰かでしょうか」


「そうだな。このまま放っておくのもなんだし、気になるからちょっと見てくるよ」


「あ、私も行きます」


 俺が立ち上がると、一人だと不安なのか蓮香もあとを着いて来た。俺は寒さで体を擦りながら、蓮香は寝ていて着崩れた浴衣を直しながら玄関の前に立つ。二人で顔を見せ合い、覚悟を決めて頷いてからドアを開いた。そこには、大きく実ったおっぱい――ではなく、怒り顔の店長が立っていた。店長はラーメン屋の制服姿ではなく、黒色のニットのセーターを着ている。


「久しぶり。犬飼くん」


「て、店長……どうしてここに……」


 こんな場所に居るはずがない店長を前にして、俺は自分の目を疑った。しかしそこにはやはり、お世話になっている店長の姿があった。

 どうしてこんなところに……仕事はどうしたのだろうか……そんなことを考えていると、店長の背後から一人の女の子が飛んで来て、俺の背後に立っていた蓮香に勢いよく抱き着いた。


「乃々! どうしたのこんなところまで来て」


「すごく心配した」


 蓮香に抱き着いた女の子は乃々ちゃんだった。乃々ちゃんは犬のように見えない尻尾を振り、蓮香に甘えている。

 店長と乃々ちゃん。そのあまり見ない組み合わせに、俺の頭の中は疑問符でいっぱいになる。俺が軽いパニック状態になっていることを察してか、店長が「はあ」とため息を吐いた。


「話すと長くなるから中に入れて欲しいんだけど」


「あ、はい。もちろんです」


 今日は珍しく店長から圧を感じるので、俺は断ることなく二人を部屋の中に招いた。

 敷いてあった布団を適当に部屋の端に寄せて、畳の上に座る。俺と蓮香が隣同士に座り、店長と乃々ちゃんと向かい合うようにして座った。


「で、どうして店長と乃々ちゃんがこんなところに居るのでしょうか……」


 そう俺が切り出すと、店長は怒りの気配を消して呆れ顔を作ってみせた。


「乃々ちゃんが店に直接助けを求めに来たんだよ。犬飼くんと蓮香ちゃんが遠くに行っちゃったから連れ戻して欲しいって」


「の、乃々ちゃんがですか……」


 そこで俺と蓮香は同時に、乃々ちゃんの方を見る。乃々ちゃんは気まずそうに視線を下げると、拗ねたように唇を尖らせた。


「蓮香から夜逃げしたって連絡があって、心配になっちゃった」


 そう言えば蓮香は乃々ちゃんと頻繁に連絡を取り合っている様子だった。恐らくその際に、逃避行生活のことを色々と話していたのだろう。


「どうしてこの場所が分かったんだ?」


「それも蓮香に聞いてたから。この部屋が分かったのは、受け付けに立ってる人に聞いた」


「場所は分かってもこんなに遠くまでどうやって来たんだよ」


「店長の車に乗って来た。速かった」


 その乃々ちゃんの一言で、今度は俺と蓮香の視線が店長へと移る。その視線を受けて、店長が口を開く。


「そりゃこんな可愛い女の子が泣き目で助けを求めに来たら、車も飛ばしちゃうに決まってるじゃないか。その車の中で乃々ちゃんから大体の事情は聞いたよ。乃々ちゃんは蓮香ちゃんを連れ戻すのが目的みたいだったけど、アタシは犬飼くんに用があってね。だから乃々ちゃんと二人でこんな遠くまで足を運んできたんだ」


 そう言って、店長は不敵な笑みを浮かべた。その笑顔に嫌な予感を感じて、俺は無意識に身を震わせた。


「俺に用ってなんですか……?」


「説教だよ。説教」


 どうやら嫌な予感は的中したようだ。ドアを開けた時に感じた店長の怒りは俺に向けてのものだったらしい。普段はとても優しい店長が怒っている……そう考えただけでも、ビビッておしっこを漏らしてしまいそうだ。

 店長は俺の目をしっかりと見ながら、落ち着いた口調で話し始める。


「まずだな、バイトを休むことを伝えてくれたのはありがとう。だけどな、休む理由も休む期間も教えてくれないから、店長のアタシとしてはすごく困った。店に犬飼くんが居てくれないのと居てくれるのでは仕事の負担が段違いだからだ。それに犬飼くん自身のことも心配したんだぞ。ほとんど連絡を寄こさないから」


「は、はい……その節は大変ご迷惑をおかけしました……」


 俺は謝罪の気持ちを込めて深々と頭を下げる。大の大人が高校生二人の前で説教されて、情けないったらありゃしない。


「でもまあ乃々ちゃんから事情を聞いたから大体分かった。その上でアタシに連絡を寄こさなかったことは目をつむるが、こんな遠くまで犬飼くんが旅行しに来た理由が気に入らなかったんだよ。話を聞いた限りだと、犬飼くんは蓮香ちゃんのご両親と会いたくなくてこんなところまで逃げて来たんだよな」


「うっ……逃げて来たと言われれば、そうですね」


「せっかく蓮香ちゃんのご両親から会いに来たのに、逃げ出したと」


「そうです……そういう認識で間違いないです」


 改めて言われれるとお腹が痛くなる話だ。しかもよりにもよって店長からその話をされるとは、思ってもいなかった。


「どうして逃げたりなんてしたんだ」


「情けない話ですが、怒られたくないからです」


「それは社会人時代のトラウマからか?」


「はい。その通りです」


 俺の弱々しい返事を聞いて、店長は腕を組むと無言で何度か頷いた。


「君のトラウマは根深いものだからな。怒られると思っただけでもこんなに遠くまで来てしまう程だ。でもな、君にはトラウマを克服できる力がある。乃々ちゃんから聞いたよ。乃々ちゃんのために、不良相手に逃げようとしなかったんだってな。前に犬飼くんが「自分は色んなことから逃げて来たんで」って言ってたのに、乃々ちゃんのために逃げなかったそうじゃないか。なのに蓮香ちゃんの両親からは逃げるのか? これじゃあ乃々ちゃんの時に逃げなかった決意が台無しだぞ」


 店長は落ち着いた口調で、諭すように話す。その声色からは怒りは感じない。むしろ心配してくれているのだと、察することができる。


「あの時は逃げられなかったってだけです。俺が逃げれば、乃々ちゃんが付き合いたくもない男と付き合うことになっちゃうから」


「でも逃げるっていう選択肢もあったはずだ。乃々ちゃんのことを見捨てれば、君は痛い目に遭わなくて済んだ。違うか?」


「ま……間違いではないです……」


 言い返す言葉が見つからずに、俺はその場で小さくなる。そんな俺を見て、店長は目尻を鋭くさせた。


「いつでも逃げられる状況で君は逃げなかったんだ。君は大事な場面で踏ん張れる力があるし、さっきも言った通りトラウマを克服できる力もあると思っている」


 芯の通った声からは、お世辞でもなんでもないことが伺える。どうして俺をそんなにも信頼してくれているのかは分からないが、嫌な気分でもない。むしろ尊敬している店長がこんなにも言ってくれていることが、とても嬉しく感じた。

 店長は俺と力強く目を合わせて、「だから」と言葉を続ける。


「今度は友達の乃々ちゃんのためじゃない。恋人の蓮香ちゃんのために、逃げないっていう選択肢は取れないか? こんなところで時間が過ぎるのを待っていても、犬飼くんに残るのは『逃げた』っていう事実だけだ。そうすればきっと犬飼くんはもっと自分に自信を無くすだろう。昔のトラウマはそのままで、また逃げる癖がついて、蓮香ちゃんのご両親からも嫌われたとなれば、蓮香ちゃんとの関係もいいものにはならないと思う。そこでもう一度だけ問う。蓮香ちゃんのために、二人の今後のために、ご両親に立ち向かうって選択肢は取れないか? 犬飼くんが変わるには、今しかないと思う」


 店長が試すような口調で尋ねる。蓮香と乃々ちゃんが、不安そうな顔で俺のことを見つめる。三人からの視線が熱い。説教されたばかりだというのに、この場から逃げたくなる。でも俺は拳にぐっと力を込めて、店長の目を見て話す。


「俺は情けない男です。彼女の両親に怒られるのが怖くて、トラウマを言い訳にこんなところまで逃げて来て。しまいにはみんなに心配をかけて。ずっと逃げて来た人生で、ようやく逃げなかったのにまた逃げ出して。このまま逃避行生活を続けてれば、ずっと蓮香と一緒に居られると思い込みまでして。でも違う。こんなところで逃げ続けても、俺は蓮香を幸せに出来ない。彼女と一緒に居ればどうにかなると思っていましたが、まずは俺が変わらなきゃいけないんですね。きっと今が俺自身を変えるチャンスだし、蓮香を幸せに出来るかの分かれ道だと、ようやく気が付きました」


 俺はそう言ってから、大きく深呼吸をする。怒られると思っただけでも手が震えるし、変な汗も出て来る。でも俺が変わらなければ、蓮香も前に進めない。

 隣を見ると、蓮香と目が合った。ぱっちりとした二重も、丸みを帯びた鼻も、穏やかそうだが無邪気なところも、全部が尊い俺の彼女。俺のことを五年も好きで居続けてくれた、世界で一番に愛しい存在。俺はこの子と、最高の人生を歩みたい。


「俺、もう逃げません。蓮香が俺のことを信じてくれているから、俺も自分のことを信じてみます」


 震える体に力を込めて、俺は覚悟を決めて店長の顔を見る。すると店長は次第に頬を緩め、嬉しそうに笑った。


「ああ、君なら出来るよ。その目を見れて安心した。頑張れよ、犬飼くん」


 店長の笑顔を見ることが出来て、肩に乗っかていた重いものが全て取れた気がした。俺は体が軽くなったのを感じながら、「はい!」と大きな声で返事をする。その返事に満足したのか、店長も笑顔で頷いてくれた。

 店長のおかげで覚悟も決まり、今度は隣に座る彼女と目を合わせる。蓮香はどこか嬉しそうな顔で、俺と視線を合わせてくれる。


「蓮香。ごめんな、こんなところまで連れて来て」


「いいんです。短い間の旅行でしたけど、すごく楽しかったですから。幸せな時間でした」


「あはは。蓮香は優しいな。でもこの旅行もここで終わりだ。俺は蓮香の両親に頭を下げなくちゃいけないから」


「はい。どこまででも着いて行きます」


 そう言ってくすぐったそうに笑った蓮香が可愛くて、思わず抱きしめる。力強く彼女を抱きしめると、「苦しいですよー」とどこか嬉しそうな声を紡いだ。それでもぎゅっと抱きしめていると、トラウマで怯えた心も段々と安らいでいく。彼女の体を抱いていると、落ち着いてしまうのだから不思議だ。


「帰ろう。蓮香」


 蓮香の頭をポンポンと撫でると、彼女も俺のことを抱きしめ返してくれる。


「そうですね。帰りましょうか。柊一さん」


 抱きしめ合い、互いの名前を呼び合う。心の底から湧いてきた温かなものは、蓮香のおかげで知れた『幸せ』という感情だ。

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