蓮の花

 結局、コンビニで昼食を買ったあとは漫画喫茶に立ち寄った。特に読みたい漫画はなかったが、何もない一日の時間をただひたすらに潰した。

 店から出る頃には空も暗くなっていて、冬の寒さが全身に襲い掛かった。もっと上着を着て来ればよかった。そんな後悔をしながら、帰りにコンビニで夕飯を買って帰路に就く。

 バイトがある日以外は、大体が今日みたいな一日になる。もっとも、毎日漫画喫茶に行けるような金はないので、金欠の時には家でひたすら寝ているのだが。

 今日も無駄な一日を過ごしたな。なんて思っている内にアパートに着き、ポケットから鍵を取り出しながら階段を上る。

 俺の住んでいるアパートは年季の入った二階建てで、俺はその二階の角部屋に住んでいる。


「ん……?」


 階段を上った先には、誰かの部屋のドアを背もたれにして座っている女の子の姿があった。女の子は厚手のコートを着ているようで、膝を抱えるようにして座りながら、ぼーっとスマホをいじっている。

 こんなに寒いのに、鍵がなくて部屋に入れないのだろうか。でも関わるのも面倒そうだからと、俺は見て見ぬふりをして自分の部屋に入ってしまおうと足を早める――が。


「……俺の部屋の前じゃねーか」


 女の子が背もたれにして座っていたのは、俺の部屋のドアだった。

 そこでようやく俺の存在に気が付いたのか、女の子は顔を上げてこちらを見上げた。その瞬間に、女の子の瞳が驚いたように大きく見開かれた。そのせいでアパートの光が彼女の瞳に反射して、星のまたたきのように映る。


「柊一……さん……?」


 ひとつの濁りもない、澄んだ声だった。

 そして間違いなく、女の子は俺の名前を呼んだ。

 どうして俺の名前を知っているのだろう。見た目は大学生くらいだろうか。ぱっちりとした二重。丸みを帯びた可愛らしい鼻。肩まで長さのある茶髪は毛先がカールしていて、光を反射させるほどのツヤもある。こんな美少女、俺の知り合いには居るはずもない。


「えっと、そうだけど」


 バイト以外で人と話す機会がなさ過ぎて、素っ気ない返事をしてしまった。しかしそんな後悔もすぐに消え去った。だって女の子の瞳が、満天の星空のように輝き出したのだから。

 女の子は瞳をキラキラとさせたまま、おもむろに腰を上げた。かと思えば、彼女はそのままぐいと俺に距離を詰めた。興奮しているのか、彼女の頬が赤く上気している。


「わ、私のこと覚えてますか? ほら、公園の」


 食い気味にそう尋ねる彼女に圧倒されて、俺は一歩だけ後ずさる。

 覚えていますかということは、彼女とはどこかで会ったことがあるのだろうか。俺の名前も知っているのだから、その可能性が高いか。でも公園……公園か……最後に公園で遊んだのなんて中学生くらいの時だもんな。公園に関しての記憶なんて、ほぼないに等しい。


「ごめん。全然分からない」


 よくよく考えてみれば、女性の知り合いなんてバイト先の店長くらいしかいなかった。だから正直に分からないと伝えると、女の子は頬をフグのように膨らませた。

 あれ……このフグみたいに頬を膨らませるしぐさどこかで……。思い出せそうだが、よく思い出せない。

 困惑している俺をよそに女の子は頬を膨らませるのをやめて、また一歩距離を詰めて来る。


「五年前くらいに公園で私から話し掛けたじゃないですか」


 五年前……というと、俺が新卒で働き始めたくらいの時だ。


「五年前? 五年前に俺が公園に居たのか?」


「居ました。まだ仕事中だった柊一さんに私から話し掛けたんですけど……」


「ってことは営業の仕事をしてる時だよな。たしかによく公園で休憩してた気がするな」


 営業職で働いていた頃は毎日数字に追われていたので、昼休みの代わりに公園で数分だけ休憩するのが日課だった気がする。今思えば、よく数分だけの休憩で十時間近く働けていたよな……あの時のことを思い出すと、まだみぞおちの辺りがヒヤリとなる。


「ですよね。多分その休憩のタイミングで私が話し掛けたんですよ」


「話し掛けた? 君がか?」


「はい。私がです」


「その時の俺とどんな話したんだ?」


「うーん。雑談って感じだったんですけど、私の悩みを聞いて貰って、柊一さんがアドバイスをくれました」


「俺が君にアドバイスをしたのか?」


「はい。すごくためになるアドバイスを貰いました」


 俺がこんな可愛い子にアドバイスを? いやいや、信じられない。俺みたいな底辺を歩いている人間が、こんな人生を謳歌しているような女の子にアドバイスだなんてありえないじゃないか。


「やっぱり人違いじゃないか?」


「人違いじゃないですよ。顔だってあの時とあんまり変わらないし。だってお名前も犬飼柊一さんですよね」


 苗字まで当てられて鳥肌が立った。どうやら人違いではないようだ。

 しかし俺が思い出せないで居ると、女の子は何かを言おうとして口をつぐんだ。かと思えば顔の前で両手の指を擦り合わせながら、俺にチラチラと上目遣いを向けて来る。


「じゃああの約束も忘れてるのかな」


「五年前の俺と何か約束でもしてたのか?」


「うん、しました」


 女の子は指を擦り合わせたり、唇を優しく噛んだりと落ち着かない様子でいる。


「どんな約束をしたんだよ」


 俺がそう尋ねると、元から赤かった彼女の頬がさらに上気した。

 それから女の子は、おそるおそると口を開く。


「私が大人になったら結婚してくれるって、約束しました」


 その声はどんどんとしぼんで行き、最後の方はなんて言っているのかが聞き取れなかった。けれども、肝心な部分はきちんと聞き取れた。聞き取れてしまったからこそ、俺の記憶は自動的に五年前のあの日にまで遡った。

 たしかあれは五年前の冬の日。営業の成績が振るわなくて死に物狂いで働いていた時のことだ。公園で数分だけ休憩を取っていると、髪を金髪にした中学生に話し掛けられた。その中学生は生きる理由が分からないと言っていて、終いには俺にエッチを要求した。しかし俺がエッチを断ると、今度は結婚を申し込まれた。

 その出来事が脳内に流れ出すや否や、俺は驚きで目を見張っていた。


「ま、まさかあの時の金髪少女か……?」


 声を震わせる俺のことを見て、彼女は嬉しそうに「あはは」と笑った。


「どうも。あの時の金髪少女です」


 彼女は額に手を当てて、控えめな敬礼をした。

 まじかよ。この清楚で大人しそうな女の子が、あの時の金髪少女だと……? しかもきちんと敬語まで使えている。あの時の不良のイメージが今の彼女には跡形も残っていなかった。

 その驚きと同時に、あの日のなつかしさが込み上げてくる。


「うわ、すごく懐かしいな。あの時は髪色も化粧も派手だったのに、こんないい子そうに育って……」


 まるで生き別れた子供と久しぶりに再会した親みたいな感想を漏らす俺を目の前に、彼女もどこか気恥ずかしそうに微笑んだ。その微笑んだ表情が綺麗すぎるせいか、生まれて来たことを後悔していた五年前の少女の面影はなくなっていた。


「もう不良からは足洗ったんだな」


「あの時も別に不良だったワケじゃないですけど、今は学校にも行ってるし真っ当に生きてますね」


「学校に行ってるんだな。大学生になったのか?」


「ううん。今は高校三年生です」


 彼女は「ほら」と言って、着ていたコートのボタンを外して見せた。するとコートの中からは、茶色を基調としたセーラー服が顔を出した。


「え、まだ高校生だったのか。てっきり大人っぽいから大学生くらいかと思った」


「あはは。前に会った時は私が中一の時だったから、あれから五年経って高校三年生ですね」


「あー、そうか。あの時は中学一年生だったんだな。あの時も思ったけど、やっぱり君って大人っぽいよ」


「うふふー。嬉しい。ありがとうございます」


 小首を傾げて微笑んだ彼女は、「ってかさ」と言葉を続けた。


「私の名前覚えてないですよね。私のこと『君』って呼んでるし」


「あれ、君の名前教えて貰ったんだっけ?」


「きちんと教えましたね。私、あの時のことを忘れたことないですもん」


 そう言い切る彼女からは、嘘をついている様子が感じ取れなかった。ということはまさか、本当にずっと覚えていたのだろうか。


「ごめん。全然思い出せないや」


 素直に名前を覚えていないことを白状すると、彼女は困ったように眉尻を下げた。


「そんなことだろうと思いましたよ。もう五年も経ってますもんね」


「ああ、あの出来事すら覚えてなかったもんな」


「ちょっとくらいは私のこと覚えててくれてると思ったんですけどねー」


 困り顔のままそう言うと、彼女はその場でくるりと一回転してみせた。それから俺の顔を覗き込むようにして、また笑顔を作る。


「私の名前は津田蓮香(つだはすか)です。覚えてないですか?」


 彼女がその名を口にした瞬間に、またもやあの日の記憶が脳内で再生された。

 たしかあれは別れ際。彼女が名前を名乗った際に、蓮香という名前はあまり聞いたことがないが、蓮の花のように美しい彼女の笑顔にピッタリだと思った記憶がある。


「うわー、蓮香ちゃんだ。今ちゃんと思い出したわ」


 俺がしみじみと呟くと、蓮香ちゃんは「ほんとですかー?」と言って笑った。その笑顔を見て、またも蓮香という名前がピッタリだと思った。蓮香ちゃんはよく笑う子のようだ。


「ほんとほんと。五年前に住所を教えてたことも思い出したから」


「お、それはよかったです。じゃあ人の住所を特定するようなストーカーだとは思われなくなったワケですね」


「そこまでは思ってないけどな」


 俺がそう口にしたと同時に、ドタドタと誰かがアパートの階段を上って来る足音が聞こえて来た。その音の方に、二人して顔を向ける。

 まずいな。こんなところで女子高生と話しているのがバレたら、なんて思われるか。だからと言って蓮香ちゃんを家にあげるのも、法律的にマズい気がする。でもせっかくここまで来てくれたのだから、温かい飲み物でも出すのが大人ってもんか。


「ここじゃ寒いから家の中で話すか?」


 エロい感じではなく友達を家に招くような口ぶりを意識して、蓮香ちゃんに問いかける。すると蓮香ちゃんは俺の顔を見上げるなり、きらきらと目を輝かせた。


「話します!」


 何かを考えるよりも先に言葉が出て来たのか、蓮香ちゃんの口からは食い気味な返答が返って来た。

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