第44斤
再び館内を巡り始めたが、浮遊感というか、まるで自分の身体が自分の身体ではないような錯覚を覚える。あの話は本当なのか? 鮮やかに煌めく鱗を持っている熱帯魚を見ても、だらしなく木組みの台の上で寝ているツメナシカワウソを見ても、トレーナーに声で指示されヘソ天しているセイウチを見ても、頭の中ではその疑問でいっぱいだった。
委員長と白野さんも、あれから僕に何かを聞いてくることはなかった。気を遣われているのか、聞く必要もないと判断したのかはわからない。いっそ僕の方から説明しようかとも思ったけど、自分についての説明は相変わらず上手くできなさそうなのでやめた。
そもそも消えたって何だ。人間になれるイルカって何だ。常識選手の守備範囲外にありそうな話されても理解できるはずが無いだろう。動物の熱中症対策だとは思うけど冷房効きすぎで寒いし。その割にはなんか右手は温かいし。
「浮かない顔をしていますね」
違和感に気づき右を向いたらルイちゃんがいつのまにか僕の手を何の躊躇いもなく握っていた。そこで「うなぎねぎとろ!?」という白野さんの奇声が耳に入ってきていることに気がついた。ちなみに水槽にいたのはタカアシガニだった。
「ようやく気がつきましたか。ふれあいイベントを終えたウイ先輩に『誰にもお兄さんを渡すつもりはありません! シャー!』と言われてつよしさんと引き離されてしまいましたので、代役ということで……誰でしたっけ」
ルイちゃんは僕と顔を合わせるとあっけらかんと首を傾げた。
「舞原麦也」
ぼんやりする頭で、なんとか口を動かして自分の名前を発声する。
「舞原麦也さん、ですか。舞原さんだとマイちゃんと紛らわしくなるので麦也さんと呼ばせていただきますね」
ルイちゃんは僕の手をぎゅっと掴みながら眼鏡の奥の目を細めて、薄く微笑む。独特の髪色を除けば、やっぱりどう見ても中学生くらいの女の子にしか見えなかった。
「さっき、私のパンツ見ましたよね?」
「見てないけど!?」
そのまま僕を見ながら突然そんなことを言い放ってきたので思わず変な声が出てしまった。
「ムギさん……やっぱりえっちなんじゃないっすか」
「本当に見てない!」
委員長に冷めた目を向けられたので首を全力で横に振った。実際そんな部分に目を向ける心理的な余裕は無かったし。
「私がプールからジャンプして人間の姿になったとき、ひるがえったスカートの中をいやらしい目で見てましたよね」
「あれは……君が本当に人間になれるイルカなのか疑っていたからで……」
「つーかパンツ履いてるんすか? イルカのときはすっぽんぽんなのに」
「はい」
ルイちゃんはそう答えると自分でスカートを掴んで上げていった。白くて細い太ももが露わになったところでこめかみに強い衝撃。
「えっち!」
明滅する視界と朦朧とする意識の中で含羞の色が浮かんだ声を聞きながら軽妙に宙を舞い、リノリウムの地面に激しく叩きつけられる。
「僕は……何も……」
「ばかっ!」
僕は白野さんに殴られたのだと、顎まで紅潮している彼女の顔を下から見て気づく。周囲を行き交っている人たちや水槽にいるよくわからない魚の群れまでもが僕を怪訝な目で見ていることにも気づき、痛みを堪えながらすぐに起き上がる。
「私は麦也さんが変態だとしても、軽蔑はしません。ですが警戒はさせていただきます」
僕は無言でルイちゃんの頬を掴んだ。
「ひゃわあああ」
ルイちゃんは棒読みで悲鳴を上げたが、抵抗はしてこなかった。感触は、弾力があってむにむにしていて温かい。人間の頬そのものだったし、引っ張って歯を覗いてみても人間の歯が綺麗に並んでいた。それとこれってどうなってるんだろう。
「わあああ」
僕はルイちゃんの顔面の3分の1くらいの面積を占めていた大きなフレームの眼鏡の蝶番の部分を掴んで抜き取った。ルイちゃんは緩慢な悲鳴を上げたけどやっぱり無抵抗だった。
これも人間の姿になったときに具現化したものだよなと思いながら、その眼鏡を観察する。レンズに目を近づけると視界が歪んだ。度が入っていて、どこにでも売ってそうな普通の眼鏡だった。
「イルカって目悪いんすかー?」
「視力検査表の一番上も見えません。私だけではなく、他の子もみんなそうです」
ルイちゃんがぼんやりした目で僕を見ながら僕の前にいる委員長の質問に答えた。これは確かに眼鏡が必要そうだ。
「他の子……ってもしかして他のイルカさんも人間になれるってことっすか!?」
「はい。ここの水族館にいるイルカは全員なれます。それと、何も見えないのでそろそろ眼鏡を返して欲しいんですが」
ルイちゃんは僕の隣にいた白野さんを正面から見上げて、白野さんが持っていたスマホを奪い取ろうとしていた。これは確かに返してあげた方が良さそうだ。
「えっと……それって……マイちゃんもなれるの……?」
「はい。喧しいので私は苦手ですが、白黒の独創的な髪が特徴的な可愛い女の子になりますよ」
「そ、そっか……そうなんだ……」
白野さんはスマホをポケットにしまいつつ、ルイちゃんに尋ねた。ルイちゃんは眼鏡を外して大きくなった目を細めながら僕を見て答えた。白野さんは戸惑いながらも顎に手を当てて考えるような仕草を始めた。
なんだろうと思いつつも、僕は真正面にいるルイちゃんの顔に眼鏡を戻してあげた。耳に掛けた瞬間「ふにゅ」という声が口から漏れてちょっと可愛かった。もしも妹がいたらこんな感じで楽し――いけない。僕はわっちん一筋のはずだろう。
そうだった。
今の僕は、黒和わわのことが好きで好きでたまらない「焼きバター」だ。
それ以外の、何者でもない。
「ありがとう」
それに気づかせてくれて、という思いを込めてルイちゃんに礼を言った。ルイちゃんは目をぱちくりさせながら首を傾げた。
「なぜお礼を言われるのかわかりません」
「言いたくなったから、言ったんだよ」
僕はルイちゃんの頭を撫でた。イルカには全く無い、さらさらな毛の感触を感じる。
「ムギさん……やっぱり……」
「僕は黒和わわ――をやってる白野さんが一番好きだよ」
「あじゃっじゃっらりりたいいらふぁっふぁいえああいふぃいふぁほほしろおざまえみらじぐじゃなふぁんふぁしゃこおふぁじじぇあいあふぁじぇふぁえんがわわあがりはかりめがいむさいさだだあああああああああ…………」
僕が白野さんに言うと、白野さんは奇声が溢れ出しそうになる口を両手で必死に抑え始めた。もう既にかなり溢れてたけど。
「こんな公共の場で大胆な! でもなんか安心したっす!」
委員長が屈託の無い笑顔で僕を見る。
「これが、人間の恋というものなのですね」
僕を見ながら、ルイちゃんが感嘆の声を上げた。
「いや、人間に恋しているというか、なんというか、人間なんだけど、そうじゃないっていうか」
「つまり、白野さんも人間では無いと?」
「いや、さすがにイルカとは比べ物にならな――」
「教えて下さい」
僕が回答をはぐらかしていると、真剣な顔と強い声色でルイちゃんが言った。
一体、どうやって説明しよう。人ごみをかき分けながら水槽を横目で見つつ考えていると、小さな水槽の中をぴょんぴょんと泳いでいるクリオネが目に入った。
「白野さんは、クロワッサンの妖精なんだ」
「そうなのですね」
流氷の妖精を見て適当に言ったけど、ルイちゃんはあっさりと納得した。
「いや、あ、うん、えええあっかかあふぁふぁあ!?」
クロワッサンの妖精にされたクロワッサン系VTuberの中の人は、否定も肯定もできず、ただただ動揺していた。
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