第7斤🥐

「はぁ……」


 部屋のリビングに辿りついた瞬間、私はソファめがけてうつぶせに倒れ込んだ。外もすっかり暗くなったけど、私は動けなかった。カーテンを閉めることももうしばらくできそうにない。


 大した運動もしていないはずなのに、水泳をした後みたいな倦怠感が全身を襲い続ける。うつぶせのまま深呼吸をしたら埃かなんかが気管に入ったみたいでむせた。ので、普通に座り直してだらーっと脱力する。


 そのまま真っ白な天井をぼんやり眺めながら、隣の席の男子、舞原麦也のことを思い浮かべる。


 いきなり焼きバターだの辞めないでだの好きだのなんだのって……情報量が多すぎてもう何を言われたのか、何をされたのかもあんまり覚えてないし、私が彼に何を言ったのかも覚えていない。ひとつ覚えているのは、心の中をミキサーみたいにぐちゃぐちゃにされたということだけ。それにあれだけ生身の人と長い時間話したのはいつぶりだろう。やっぱり、人と話すのは疲れる。喉の体力ゲージだけじゃなくて、心のゲージまでもが削られてる感じがする。


「メロンパンの話するんじゃなかったなぁ……」


 今更後悔しても無意味なことを、小さく呟く。でも、仮にそれを言わなくても彼が焼きバターだった以上身バレするのは時間の問題だったのかもしれない。どちらにせよもう遅いけど。

 

「くろわわ、わわわわ、わわわわわ…………だめだ、しっくりこない」


 さっき右手に力を全集中させてなんとかお知らせツイートをしたけど、今日の配信は休みにして正解だった。今日はもう「黒和わわ」を演じられそうにない。このまま無理してやっても、プレイングでも、トークでも、焼きバターのみんなを失望させるだけだ。


 いや、そもそももう黒和わわとして活動が出来そうにもない。伸び悩んで、ひっきりなしにどんどん出てくる後輩にも追い抜かれ続けて、とどめに一番恐れてたことが起こった。傷口に塩を塗られてもなお、平然としていられるほど私は強い人間ではない。


「強い人間……か」


 ふと思い立ち、私はスマホでYouTubeを開いた。ホームに出てくる動画は、どれもVTuberや配信者の似たような切り抜きばかりだった。内容は「ドリーマーズオブザーサイ」のメンバー、うぇんの炎上に関しての言及を切り抜いたものだ。ドリザか……あのクロワッサンはおすすめして――このことはもう考えたくない。頭を振って、何とか思考を切り替える。


 どうして炎上したんだったっけ……。くらくらする頭で何とか思い出してみようとしてみたけど調べた方が早いと思い直して、ドリザ 炎上で検索してみたらすぐに炎上騒動の概要をまとめた動画が出てきたので、それを見た。


 するとどうやら、アンチの偏見と言い掛かりに満ちた執拗な暴言に痺れを切らして「人間のふりした豚共が勝ち組になれないからって俺に嫉妬するな。人の足引っ張ることしか出来ない家畜はピンクの全身タイツ着て一生ブヒブヒ言ってろ」と動画内で言ったらしい。そりゃ燃えるに決まってる。私はそんなこと到底言えない。アンチコメントが来たことはもちろんあるけど、すぐに削除なり非表示なりブロックなりして、頑張って見なかったことにすることが関の山だ。


 それから、当該動画は非公開になってメンバーの一員であるいいだが謝罪動画をアップロードした。しかしそれも炎上していた。動画のコメント欄を見ると「なぜうぇんが謝罪しないのか」「謝罪すればいいと思ってんだろ」「炎上商法乙」「いいだは100%悪く無いのに頭下げててかわいそう」「事務所の社長でリーダーのうごたは何やってんだ」「もう解散しろ」「これでも金稼ぎするんだろうな」「豚扱いしたことを批判してる訳じゃない。暴言そのものに対して批判してるんだよ」などというコメントばかりで、更に気分が悪くなったので見るのをやめた。


 切り抜きの方を見ると「豚扱いはまあダメでしょw」「おっさんがタイツ着てブヒブヒ言ってんの想像すると笑うんだけどw」「豚に失礼だよねw」などと小馬鹿にしたものや「配信者は多かれ少なかれそういう感情を抱えてる。けど出すべきじゃない」「人に暴言吐く人は自分に暴言吐かれたらどうすんのかな? あんな風になんのかな?」「普通に自分が言われて傷つくことは人にも言っちゃだめだよね」などと両者へのやんわりとした批判のようなものがあった。それらの動画のコメント欄もどれも荒れていたのですぐに見るのをやめた。


「もうやだよ……こんな世界……」


 スマホを床に落として両手で目を覆う。もし自分がうぇんと同じ立場に立たされたら、まともな精神状態でいられる気が全くしない。私はこのことについて配信で言及したことはないけど、言及したらその言葉が着火剤になって、私もそういう立場になっても何らおかしくはない。それだけじゃない。配信内で話す一言一言が、隣の彼――舞原麦也に聞かれているんだ。聞かれることになるんだ。


 冷房はまだ付けていないはずなのに、自然と身体が寒気に襲われて、ガクガクと震え始めた。


 もう何も、喋れそうにない。


 もう何も、できそうにない。


 もう何も、やりたくない。


 活動休止の旨を事務所に伝えるべきだろうか。そうしよう。そう思ってスマホを床から拾う。


 スマホはまだ、どこの誰かもわからない配信者の切り抜き動画を垂れ流していた。それをすぐに閉じて、私は無意識のうちに、検索バーに「舞原麦也」と入力していた。


「何やってんだろ私……」


 こんなことしても、何も出てこないだろうに。


「え……?」


 自分で自分に失笑しながら検索結果を見た途端、私は言葉を失った。


「なんで……こんな……動画が……出てくるの……?」

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