第49斤
『今日は全国的に真夏日となる予想なので熱中症には十分注意して――』
天気予報のコーナーに切り変わったテレビの音声だけが聞こえる室内で、僕たちは何も喋らなかった。喋れなかった。
「ま、まだ消えたって考えるのには早すぎます! 大学生だしまだ寝てるだけなのかも!」
数分間の静寂を破ったのは、この状況を結果的にとはいえ作り出してしまった母であった。
「そうだ。僕もまだいいだの家に押し入ったりした訳じゃない」
つよしが母に同調する。そして僕と目を合わせ、言葉を続けた。
「彼女の家の住所は知っているか?」
「実際に行ったことは無いですけど、一応は」
イルカを抱いている僕につよしはまた真面目に聞いてきた。この様子じゃ多分気づいていない。
「駄洒落ではない」
気づいていた。そしてつよしは真顔のまま財布を取り出してすぐには数え切れないほどの1万円札をルイちゃんの膝の上に置いてきた。
「僕とウイちゃんでこれからいいだの家に行く。君も学校は休んでそのいとこの安否を確かめに行け。これくらいあればルイちゃんとそこの彼女も一緒に仙台まで行けるだろう」
「ぶえらとらてら!?」
つよしがしれっと僕の隣で固まっていた白野さんを見て言ったので白野さんは変な再起動音を出した。
「なんで……私も……?」
「ムギもルイちゃんも消えたら誰も僕に連絡できないからな」
「私は消えたりしません」
戸惑う白野さんをよそに、ルイちゃんがきっぱりと言う。しかしその言葉とは裏腹に、彼女は僕の腕を不安を隠すように汗ばんだ手で強く握っていた。
「2人とも消えるのは最悪の想定だ。いとこも無事で3人で呑気に仙台観光やれるのが最善の想定だ」
つよしは言った。そしてその言葉で気づく。つよしたちには、まだ白野さんがVTuberをやっていることを伝えていないことに。
僕は甘い香りがするルイちゃんの髪に鼻と顎をくすぐられながら、白野さんの方へと顔を向けた。
「その……私も……VTuberなんです……黒和わわって名前の……」
「そうだったのか。僕はリアルYouTuberだけどな」
「ぶげららてりとうはと!」
僕の方から説明しようかとも思っていたが、白野さんは自分からつよしにそう名乗った。しかし微妙に言葉足らずになってしまいパニックになりつつパンケーキのひとかけらをフォークに刺していた。
「今までコラボとかは?」
「してないです。そもそも白野さんがデビューしたのは一昨年なので」
牛乳が入ったマグカップにパンケーキを浸し始めた白野さんを横目に、つよしが僕に尋ねる。僕は素直に首を横に振った。つよしは僕の言葉の返事を聞いて「そうだったか」とだけ言った。
「ところでなんでルイちゃんまで?」
そろそろ太ももが痛くなってきたなと思いつつ僕がつよしに質問を返した。
「ルイちゃんはまだ水族館の周りの世界しか見たことが無い。消えないことを祈りながらも、一緒に仙台まで連れていってやって欲しい」
「本当はウイちゃんと2人きりになりたいだけです」
つよしがそれっぽいことを言った瞬間、ルイちゃんが小声で囁いてきた。ウイちゃんはつよしの腕を抱きながらドヤ顔で僕の顎あたりを見ていた。だけど、心なしかルイちゃんの声は嬉しそうだった。
「トレーナーさんの方には私から伝えておくね!」
ウイちゃんが満面の笑みでルイちゃんに言う。
「よろしくお願いします。麦也さん」
ルイちゃんはウイちゃんに返事はせず、顔を上げて僕と目を合わせてきた。僕の顎に眼鏡が当たって派手にずれていたけど両手を握られているので直せないなと思っていたら白野さんが直してくれた。
「ありがとうございます。クロワッサンさんも、よろしくお願いします」
「くろわっ……!?」
間違ってないけど間違っている呼び名でルイちゃんが白野さんを呼んで頭を下げた。白野さんは絶句して僕を見た。僕にどうしろと言うんだ。
「この人は白野知晴って言うんだよ」
「ですが、クロワッサンなのですよね?」
「それは、そうだけど」
「それならクロワッサンさんで。1回だけしか食べたことはありませんが、美味しかったですので」
「……舞原くん」
ちゃんとした名前をルイちゃんに教えてあげたのに、白野さんは僕を睨んできた。だから僕にどうしろというんだ。
「あの! お母さんは何をしたらいいですか!」
僕が困惑しながらむすっとした白野さんと顔を合わせていると母が手を目いっぱい挙げながら口を開いた。
「家で麦也さんの帰りを待ってあげて下さい」
「そう、ですよね。それがお母さんのすべきこと、ですよね! がんばれムギくーん! 学校には連絡しておきますから!」
「あ、ありがと」
つよしが母に言うと、母が僕の肩を背後から力強く叩いてきた。何を頑張ればいいんだと思いながらも僕は礼を言っておいた。
「それでは、僕とウイちゃんでいいだの家に行ってくる。日羽さんだったか、彼女は無事でいるといいな」
「頑張ってね、ルイちゃん!」
そしてつよしとウイちゃんはそう言った後、近くの扉を開け、玄関へと踵を返す。
「何を頑張ればいいのかよくわかりませんが、わかりました」
「何をって! 色々だよ! い・ろ・い・ろ!」
僕と同じ疑問をルイちゃんが返すと、ウイちゃんは勢いよく振り向いてルイちゃんの鼻に人差し指を突き立てて言った。
「また来てくださいねー!」
父が聞いたら泣きそうなことを、母は玄関で靴を履いているつよしに言った。つよしは何も言わず、母の頭を撫でた。
「きゃー!」
父が帰ってきたら泣くぞ、絶対泣くぞと脳内で結論づけた時にはもう、つよしとウイちゃんは家から去っていっていた。
「あ……私も……連絡とか……準備してくる……」
ようやく朝食を食べ終えた白野さんも両手をぱちんと合わせた後、足早に家から出ていった。
「わわー」
僕も準備をしようと、ルイちゃんを軽く持ち上げて床に置くと立ち上がる。ルイちゃんははしゃぎ声みたいな声を上げながらも、ようやく僕から離れてくれた。
「ごちそうさま」
僕は母にそう告げて、残された大量の1万円札を手に取り自室へと歩を進めていった。
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