34. この未通娘が



 居づらい。

 凛々花は、長い廊下に雑巾をかけながらそう思った。

 周りには誰もいない。

 どこかから、女性の笑い声が聞こえる。大黒の笑い声と、あとは知らない人の声。

 きっと凛々花がまだ会ったことのない、通いのお手伝いさんだろう。

 ツナは別の場所で掃除をしているはず。

 冗談みたいに広いこの家、掃除だけで日が暮れる。

 どこか遠くで電話のベルが鳴っている。

 おしゃべりに夢中になっているのか、大黒たちがその電話に出る気配はない。

 ま、どうでもいい、まだ新米だから、お屋敷の電話はとらなくていいと言われてる。


「私、奥様の心象しんしょう最悪だろうなあ」


 ひとりごちる。なにしろ自分のために、この家の孫娘をつれて、息子の再婚相手の連れ子が家出してしまったのだ。

 この先どうなろうと、この家に住み続けるのはさすがに居づらすぎる。

 かといって、知らない政治家の妾になって子供を産ませられるとか、それも嫌だ。

 妹の顔を思い浮かべる。


「……ん。でも、お姉ちゃんがんばるからね」


 まるで自分に言い聞かせるように呟いた。

 そういえば、今何時だろう?

 今日のお昼ごはんの当番は凛々花なのだ。

 料理なんて、全然わからない、どうしよう。……ほんと、気が重いことばかり。

 とりあえず、メイド服のポケットに手をつっこむ。

 大黒に渡された、料金会社持ちの携帯電話。

 いわゆるガラケーといわれる、二つ折りのタイプだ。

 いまどきこんなのまだあるんだなあ。

 そろそろサービス終了になるから、そのうちスマホにかわるよ、とは大黒は言っていたが。

 フリップを開け、時刻を見る。


「もう十時半か……」


 昼の料理はどうしよう、私が作れるものなんてあるだろうか、と思っていると。

 突然、手の中の携帯電話が震動し始めた。

 ちょっとびっくりしたけど、携帯に着信があって、バイブが作動しただけ。

 液晶画面を見ると、知らない番号。

 とはいっても、この携帯電話は大黒に持たされた仕事用のものなので、出ておいた方がいいだろう。


「はい……もしもし?」


『お、つながった。いやー家にかけても誰もでなかったから、こっちにかけてみたよ』


「は、はい……」


 てっきり大黒かツナ、そうでなければ愛想美だとばかり思っていたので、電話の向こうの大人の男の声に驚く。

 誰だろう? ずいぶん声が遠く聞こえる。


『ああ、君ユキちゃんだね、今ハワイのすぐ近く航行していてね、やっと電波がつながったんだ。やっぱり心配でねえ。ユキちゃんは元気してたかな?』


 電話の向こうの男の人は何かを勘違いしてるみたいだ。

 ユキって誰だっけ、ああ、星多くんが昔好きだったっていう女の人か、つまり私をユキさんと勘違いしてるんだよねこれ、などと考えてしまったのが悪かった。

 自分はユキさんじゃない、と否定するタイミングを失ってしまったのだ。


「あ、あの……」


『メール読んだよ、なんかよくわからないけど、またおふくろが馬鹿なこと言い出したみたいだねえ。山橋君の家にお手伝いさんを出すなんて、ひどいねえ、僕も行ったことあるけどあそこは魔窟だよ、ユキちゃんもおふくろにあきれたでしょう』


「いや、あの、」


 男はのんびりした口調のわりには凛々花が言葉を挟む隙も与えずに話し続ける。


『とりあえず先生に相談しなさい、電話番号は知ってるでしょう。一応さっきメール送っておいたから、ユキちゃんが言えば先生が止めてくれるさ』


「先生ってあの、」

『そ、先生から言えばおふくろも引き下がるだろうしね。ユキちゃん、これは前から僕が言おうと思ってたことだけど、もっとわがまま言ってもいいんだよ。自分の思う通りにしなさい。君に任せる。これであーちゃんに貸し一つだな、僕はあーちゃんや星多くんと一緒に住みたいんだけどなあ。今度もう一度おふくろと話してみるよ。いやしかし、携帯の電波って思ったよりつながるもんだねえ、さっきまではアンテナがたったり消えたりしてたんだけど。これもいつまでつながってるのかなあ。そうそう、オアフ島が遠くに見えるんだけどさ、これがまた……』


 ブツリ。

 いきなり、切れた。

 凛々花は唖然として携帯を見つめる。

 大きく深呼吸を三回。

 ええと、今の、何?

 これは仕事用の携帯で、かけてきたのはきっと……愛想美さんの、お父さん?

 あーちゃん、というのがつまり、愛想美さんのことだよね?

 で、私をユキさんと間違って、そのユキさんは愛想美さんのお父さんにメールしてて、それで、お父さんがユキさんに「先生」に相談するようにって……。

 先生っていったい、誰?

 そもそも、ユキさんって?

 疑問が頭の中で渦巻く。でも、少し、希望が見えてきたかもしれない。

 凛々花は無意識のうちに自分のお腹をさすった。

 このお腹に、知らない政治家の子供。

 妹の将来のためとはいえ、想像しただけで吐き気がする。

 もしかしたら、逃れられるかも、と思った。

 それにはまず、ユキ、なる人物とコンタクトをとらなきゃいけない。

 愛想美やツナが、ユキはもういない、みたいなことを言っていたが、やっぱりどうもそれは嘘で、この広い屋敷のどこかにいるらしい。

 それも、凛々花やツナの置かれている状況について、かなり詳しく知っている。

 掃除してる場合じゃない、ユキさんを探そう、と思った。

 もともと綺麗好きなので、掃除を途中でほっぽり出すのはなんだか気持ちが悪いが、さすがにそんなことを言っていられる状況ではない。

 このお屋敷で、凛々花が気軽に話しかけられる相手と言えば、ツナか大黒しかいない。

 凛々花はバケツを持つと、廊下を歩き始めた。

 広い和風建築の中を彷徨う。

 さきほど大黒の声がした方にいってみたが、そこにはすでに誰も居ない。

 ユキさん、か。きっと星多くんとそんなに年の違わない、若い人だろう。

 そういえば、通いのお手伝いさんの中にも一人二人は若い女の人がいたように思う。

 そのうちの誰かなんだろう。

 ツナか大黒を探して、広い庭に面した廊下を歩く。

 曲がり角を曲がったとき、誰かとぶつかりそうになった。


「わっ」

「きゃっ」


 目の前にいたのは、凛々花と同じく雑巾とバケツを持った、年若い少女。

 通いのお手伝いさんなのだろうが、その服装がまたちょっと普通ではなかった。

 彼女が身につけているのは、メイドでも女給でもない、黒い燕尾服。これって……。

 執事服だ! 

 男装の女の子なんて、初めて見た。正直、ちょっとドキドキしてしまった。雑巾とバケツ持ってるのが少し……いや、かなり間抜けだが。

 メイド服に、大正浪漫の女給に、男装執事少女。この家のお手伝いさんは普通の格好している人物が存在しない。正直、機能性皆無だし。どうなってるんだろ。


「あ、あの……」


 意を決してクラシカルメイドが執事少女に話しかける。男装が似合うほどの切れ味鋭い美貌、もしかしてこの人がユキさんかも、と思ったのだ。


「私、つい最近からここでお世話になっている、葉山凛々花といいます」

「ああどうも初めまして」


 ペコリン、とお互いにお辞儀する。和風建築の廊下でメイドと執事が挨拶しあうなんて、なかなかシュールな光景ではあった。

 執事少女は、その美貌に似つかわしくない子供っぽい笑顔で、


「こうやって話すのは初めましてだけど、昨日、廊下でユキさんと歩いてるのを見たよ。あなたも今お掃除? 大変だよね、広くて」と言った。


 言われて、凛々花の肌が粟立った。

 今この人、なんて言った?


「え? あの、ユキさんって……あれ? え、すみません、ユキさんって誰ですか」

「ん? ああ、ユキさんてアダ名みたいなものだから。あはは、知らないんだね。でもすぐわかると思うよお? 本名もじっただけだし」


 屈託なく笑う執事少女。


「あの、すいません、そのユキさんって」


 なおも訊こうとする凛々花に、少女は人懐っこい笑みを見せ、


「ごめんね、今日遅刻しちゃって急いでるんだ、またあとでゆっくりね」


 と、質問を続けるいとまも与えず廊下をバタバタと走って行く。

 その後姿を見ながら、凛々花は頭をフル回転させる。

 昨日、私はユキさんと一緒にいた? 私とユキさんはすでに会っていたってこと?

 ここに来て以来、廊下で一緒に歩いたといえば、考えられるのは大黒かツナしかいない。

 ということは、二人のうちの、どちらか?

『ユキさん』という呼び方は、本名をもじったと言っていた。

 えーと、ツナさんの名前は、風音ツナさん、だよね。

 あとはえっと、大黒さんは……なんだっけ、大黒……忘れた。あ、そうそう、ミルフィーユトンカツ。み、み、み……そうだ、美由紀さん、だったっけ。

 ん? 大黒……美由紀さん?

 ピーン、ときた。

 ユキさん。

 星多くんが好きだった、ここのお手伝いさん。

 昔は痩せていて美人だったという大黒美由紀さん。

 ミユキさん。

 ユキさん。


「大黒さんは……どこ!?」


 凛々花はバケツを放り投げて、廊下を走りだした。

 今、この家の中にいるのは間違いない。

 どこ? どこにいるの?

 先生っていうのが誰かはわからないけど、その先生に、ユキさん――大黒さんから連絡してもらえれば、私は、いや、私達は、助かる。

 なにより、妹や星多くんを、悲しませないですむ。

 あれれ、と思った。

 自分のことなのに、妹はともかく、なんで星多くんのことが頭に浮かぶんだろう。

 私達が売られたら、星多くんは、きっと、私達のために、悲しむ。悔しくて、泣く。

 星多くんはそういう人だ。週に一度だけ、書道部の部室で話すだけだったけど、そのくらいのことはわかる。

 自分が助かりたい、のはもちろん。それ以上に、自分のことで、人を悲しませたくない、という思いで胸がいっぱいになった。

 人間って、不思議だね。

 自分のことなのに、自分が悲しむより、人が悲しむことの方が、とても嫌だと思う。

 広い屋敷を、走り回る。

 星多の部屋、愛想美の部屋、誰もいない。

 母屋、応接の間、ばあちゃんの部屋、居間、食卓の部屋、柔道場のように広い和室。

 どこにも、大黒の姿はない。

 庭にも降りてみる。

 大きな池、錦鯉、ししおどし。

 汗がにじむ。ブラウスが湿って肌に張り付いてくる。スカートがまとわりつく。

 大黒さんは、どこに?

 松の木の緑、白丁花の目に眩しい白、シャクナゲの鮮やかな紅。

 凛々花の黒く長い髪の毛が、ひらひらと風に舞い踊る。

 走り回っているせいで、呼吸が荒くなる。

 はっ、はっ、とリズミカルに息を吐き出しながら、黒と白のメイドは走り続ける。

 この家は、広すぎる。

 ついさっきまで近くにいたはずの大黒を、みつけることができない。

 それどころか、ツナや他のお手伝いさんの姿もない。

 うぐいすの鳴き声、自分の足音、そして低く唸る機械音。

 機械音? 

 凛々花の部屋のある辺り、つまりツナや大黒の部屋もある、これは……乗馬マシンの音!

 大黒さん、今、自分の部屋にいるんだ!

 わかればそこに向かって猛ダッシュ。

 なにしろ、自分の貞操どころか、望まぬ妊娠出産がかかってる。


 そしてそれをきっと悲しむだろう、妹や、お父さんやお母さんや、それに、星多。

 廊下を走り、あそこの角を曲がればもう大黒の部屋だ。


「大黒さん!」


 ドアに向かって大声で叫ぶ。大黒は乗馬マシンに乗りながら、なにやら歌を歌っているらしい。ドアにたどりついてノックして開ければそれでいい、そうしようとした時。


「ここにいたんか。掃除もしねで」


 背後から聞こえてきた低い声にビクッとして、凛々花は立ち止まった。

 振り向くと、そこには苦々しい表情の、ばあちゃんがいた。


「奥様……」

「おい、じゃあ、こいつ、連れて行ってくれ」


 見ると、ばあちゃんの後ろには、スーツ姿の身体の大きな男が二人。

 目つきが鋭い。

 ぞっとして、足がすくむ。


「あの、あの……」

「ああ、こいつら、山橋んとこで使われてる奴らだ。お前は今から山橋んとこ行ってもらう。なあにが十万円だ、この未通娘が。あんな嘘、おれが見破らんねとでも思ったか。懲らしめだ、ツナも先に連れて行ってもらったわ、お前も山橋んとこで揉まれてこい。おい、連れて行け。嫌がるようだったら無理やりでもええぞ」


 男が二人、凛々花に近づく。

 悲鳴をあげようとしたけど、喉の奥からはしゃっくりみたいな「ひっく」という音しか出てこない。

 ドア一枚向こうでは、乗馬マシンの作動音、調子っぱずれな男性アイドルグループの歌。

 男が一歩一歩近づいてくる。

 怖い。蛇に睨まれた蛙の気持ちがよくわかる。

 恐怖で足がすくみ、大声を出して逃げ出したいのに身体が動かない。

 もともと凛々花は箱入り娘で、こういう逆境の経験がない。特に、暴力の匂いがするシチュエーションに弱いのだ。

 頭の中が真っ白になって、何も考えられない。


「さあ、こちらに」


 男の声はとても低くて心臓に響く。抗おうという気力が根こそぎ奪われた。


「さあ!」


 野太い声に身体をビクっと震わせて、凛々花は操り人形のように言われるがまま、男の後をついて行く。

 大きな男に挟まれて、小さく細い肩を落として歩いて行く凛々花。その後姿を見送り、ばあちゃんがふん、と鼻を鳴らして、


「おれを騙そうなど、五十年早いわ。しっかし、大黒め、……歌、下手だのう。こんなとこいられんわ。だいたい、最近の歌はおかしなもんばっかりだの」


 ばあちゃんは機嫌よく、昔の芸者歌手の歌を口ずさみながら、自室へと歩いて行った。

 誰もいなくなった廊下に、大黒の歌う下手くそなアイドルソングと、乗馬マシンの作動音だけが残された。




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