36 たとえ殺してでも


 星多が取り出したのは、刃渡り三十センチの柳刃包丁。

 屋敷のキッチンから拝借してきたものだ。刃の部分には新聞紙をぐるぐる巻いてある。


「あ、あんた……」


 愛想美は一歩あとずさり、絶句する。


「最悪……俺が、これで」

「はあ? あんた正気?」


 正気かと訊ねられれば、そうじゃない、と即答できる。

 凛々花の顔を思い浮かべる。

 書道部の部室での、太陽のような笑み、軽やかな笑い声、風に泳ぐつややかな長い黒髪。

 それとはうってかわって、慣れないお手伝いさんの仕事に不安げな表情を浮かべていた、クラシカルメイド姿の凛々花。

 そして、女給姿のツナ。

 思えば、星多が神道寺家にきてから一度も、ツナが素直に笑った顔を見たことがない。口ではあんなに冗談ばかり言っていたのに、でもそれはいつも星多や愛想美に気を使った軽口だった。

 俺のせいで。

 俺が、余計な作戦をたてたばかりに。

 もしかしたら、いつか髪の毛を触ってしまった女子にしたように、ばあちゃんにも土下座してお願いすれば、それですんだかもしれないのに。

 変なプライドと、ばあちゃんへの憎しみと、思いついた作戦を試してみたいと思った子供じみた挑戦心。

 俺のせいで、今後永遠にあの二人が心から笑える日を、失わせてしまったかもしれないのだ。

 いや、まだ間に合う。

 政治家の自宅はすでに調べてある、ここから近い、星多が全速力で走れば十五分でたどりつける。


「ね、星多、目が、おかしいよ?」


 そう、おかしい、それでいい、そうでなくては、助けられない。

 体中の血液が沸騰している。

 手足の指先にまで酸素がいきわたっている。身体がカッカと熱い。

 無意識に噛みしめていたらしく、歯がぎりぎりと鳴り、興奮で鼻の奥がつんとする。


「殺す」

「はい?」

「もし救い出せなければ殺す、誰でもいい、俺を止める奴がいたら、……殺す」

「待って! ちょっと、待って! あんた、なにいってるの!? え、待って、怖い、怖いんだけど?」

「悪い、愛想美、頼みがある、後ろからついてきて、もし俺が誰かを……刺すことになったら、すぐに警察に電話してくれ。でかい事件にしてやる。警察動かして、事件にしてやれば、こんなの、人身売買だ、許されるわけがねえ、それで先輩たちは助かる」

「待ってよ、待って、本気なの?」


 星多は答えず、そのかわり愛想美の目をまっすぐ見る。

 目の前の、物心ついたときからそばにいたちっちゃな身体の少女は、驚きと困惑がすぎたせいだろうか、目を見開き、笑っているようにも見える奇妙な表情で星多を見ている。


「……愛想美、わりい。みんなに、迷惑、かけた。これから、もっとでかい迷惑、かける。でも、俺、ほかになにも考えが浮かばない。だから……行く!」

「待ってってば!」

「離してくれ」


 腕にしがみついてくる愛想美の手を振り払う。

 妙な力が湧いてきている。

 玄関に向かって歩く、雲の上を歩いているような、ふわふわとした感覚、まるで重力から解放されてるようだ、俺は、やれる、やれる!!


「好きな女の子を助けられないで、男に産まれた意味がねえ」

「待って、それで人殺しするの? バカじゃないの、大丈夫よ、女って強いから、わりと大丈夫だよ、殺人まですることないよ!」

「そうだな、殺人はやりすぎだな」

「う、うん」


 ほっとした表情をする愛想美、だけど星多は続ける。


「なるべく殺さないで怪我だけさせる、刺すけど。もし必要だったら、自決する、相手は政治家だもんな、人が死なないと警察も巻き込んでうやむやにするかもしれない」

「やだっ!!」


 愛想美は叫ぶ。


「そんなのやだってば! あんたが死ぬくらいなら、あたしが死ぬ! あたしが、あたしが、なんだったらあたしが股開くから! だから駄目!」


 愛想美は顔をくしゃくしゃにし、涙を飛び散らし、髪を振り乱してしがみついてくる。


「……やる。俺は、やる。先輩たちの……ためなら、俺は、命を、使える。俺は、好きな女の子のためなら、……死ねる、相手が、愛想美、お前でも俺は死ねる、でも今は凛々花先輩達のために行く、行かせてくれ、今回のことは、俺の……失敗だから。見届けてくれ」

「なんであんたそんな馬鹿なの? おかしいよ、狂ってるって、もうわけわかんないよ」


 なおも星多にしがみつく、小さな身体。

 星多はこれが人生最後と思い、幼馴染の肩にそっと手を乗せ、


「愛想美、さっきは嘘を言った、ほんとは髪の毛よりも好きなとこ、いっぱいあるんだ」と言った。


 見上げてくる小さな顔は、憔悴して怯えきった迷子の子供のよう。


「知ってるか? 人って、その人のこと思い出す時はさ、最後に会った時の顔を思い浮かべるんだぜ?」


 もう泣きすぎて見るに耐えないほど愛想美の顔はグシャグシャだ、さすがに笑ってくれないだろうと思った。

 せめて、愛想美には俺の一番いい笑顔を見せてやろう、そう思った。

 星多は精一杯の満面の笑みを作って、


「俺、お前の香りが、好きだった」


 そう言って身をかがめ、抱き寄せて細い首筋に顔をうずめ、思い切り息を吸い込んだ。

 ずっと星多とともにあった匂いを、最後に味わっておこうと思って。

 それが悪かった。

 愛想美のブラウスは赤いヒモタイつきで、あまりにも強く息を吸い込んだせいで、そのヒモタイが香りとともに星多の鼻に入ってきたのだ。

 鼻の奥までスポーンと入り込む愛想美のヒモタイ。


「…………」


 最高のさわやか笑顔をした星多、その鼻の穴からヒモが生えている、みたいな光景、そんな星多の顔を呆気にとられた表情でみつめる愛想美、少女の長くきれいな形の眉毛がくにゃりと曲がって八の字を描く、しばらくの静寂、そして、星多の鼻粘膜を幼なじみの衣服がむずむずと刺激する。


「は、は、は……ぶぇっくしょい!」


 思わずくしゃみ。


「ぶふぉっ! ……ば、ばか、あんた、ほんと馬鹿……」


 シリアスな雰囲気で号泣してたはずの愛想美も思わず吹き出す。

 星多もほんの少しだけ我に返り、恥ずかしくなって、でも最後に愛想美の笑顔をみられたからいいか、と思った。


「じゃあ、俺は行く。俺のほうが足早いからな、あとからついてきて、……警察、頼むぞ」

「だからやだって駄目だって!」


 泣き笑いの表情で抗う愛想美を突き放し、


「愛想美、今までありがとな」

「星多ぁっ!!」


 彼女の叫び声を背中に、星多は駆け始めた。

 力の限り。

 走る、走る。

 あっと言う間に幼なじみの声は遠くなる。

 身体が軽い。

 星多の筋肉はその潜在能力を存分に発揮し、その関節はもっとも的確な角度で筋肉の力を駆動力に換え、骨はアスファルトを蹴る衝撃に耐えた。

 もう、星多にはなにも見えない。


 景色も、風のそよぎも、空の色も、なにも。


 少女たちを救うためのマシーンとして、ただひたはしった。

 さびれた商店街を抜け、橋を渡り、大通りにでてから路地に入り、居酒屋やスナックが立ち並ぶ道を走り、さらに公園を突っ切る。


 そして、ついにたどりつく。


 住宅街と商業地区の狭間にある、三階建てのコンクリートでできたでかい住宅。

 山橋とかいう、変態政治家の自宅だ。

 この中に、今、凛々花とツナがいる。

 なにをされているのか、なにかさせられているのか、もうされてしまったのか。

 絶対に、助け出す。

 もちろん玄関はオートロックで、そこからは入り込めそうにない。

 充血した目をぎょろつかせて、どこか侵入できる場所はないか見回す。

 建物の横に回ると、三階部分には、二階部分の屋根を利用したバルコニーが張り出している。ルーフバルコニーってやつだ。たくさんの洗濯物が干されている。

 あそこに、隣のビルの窓から飛び移れるかもしれない。

 さっそく、隣のビルに入る。一階はコンビニ、二階は英会話教室。三階には知らない会社の営業所がいくつか。幸い、目当ての三階の窓は、ちょうど共用の廊下部分にあった。

 右手に握りしめていた柳刃包丁をベルトに差し、窓を開け、よじ登る。

 バルコニーまでの幅は二メートル、いや三メートル?

 俺、立ち幅跳びでどのくらい跳べたっけ。

 バルコニーの柵よりもこちらの窓の方が若干高い、絶対に飛べない距離というわけではない。

 下を見ると、コンクリートで固められた地面に、忍び返しのトゲトゲがついたフェンス。

 跳び損なって落ちたら、あの槍みたいなフェンスに串刺しになるだろう。

 そうでなくても三階の高さなのだ、命を落とす確率はかなり高い、ってか普通なら死ぬ、助かったとしても今後一生車いすか植物状態確定だ。

 

――好きな女の為なら、悪くない死にざまだよな。


 星多は、そう思った。

 向こうのバルコニーまで、高さのせいか実際よりも幅が広く感じる。

 心は死ぬ気でも、身体は危険に対して拒絶反応を示す。 

 膝が、震える。心臓がバクバクと飛び跳ねる。

 落ちたら、死ぬのだ。 

 身体が言うことをきかない。

 くそ、くそ。

 歯を食いしばる。

 その時だった。

 星多は、聞いた。

 バルコニーのテラス戸、その向こうから聞こえてくる悲鳴を。

 大好きで大好きで大好きな凛々花先輩の、悲鳴を。


「いやだあ! もう、おしっこは、嫌っ!」


 そして、ツナの鋭い声。


「やめなさい、やめっ、痛い痛いっ! やめてっ!」


 瞬時に、恐怖は消えた。

 なにを考えるまもなく、星多は、跳んだ。

 怪物の巣。

 魔窟。

 そこから、少女たちを救い出すため。

 たとえ死んでもいい。

 そして、たとえ殺してでも。

 救い出す。

 絶対に。





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