第36話 契約結婚のその先へ (最終話)

 

 ある日。リナジェインは宮殿のバルコニーで城下の街並みを眺めていた。シュナに話したいことがあると呼び出されたのだが、一体何の話だろう。


(風が気持ちいい。とっても幸せ……)


 石造りの手すりに手を乗せて、目を閉じる。爽やかな風と陽光を肌で受け止めた。


「待たせたな」

「陛下!」


 花が咲いたように顔を綻ばせると、彼は「もう呼び出しても私を警戒しないんだな」と嬉しそうに言った。

 宮殿に来て半年が経った。最初のころはシュナに呼び出されると、叱られるのではないかとびくびくし、すぐに土下座しようとしていた。土下座する度に、シュナからは「プライドはないのか」と呆れられていたのを思い出す。そんなやり取りも、今となっては懐かしい。


「警戒心の強い野良猫がここまで懐くまで、随分苦労したものだ」


 猫扱いされて、不機嫌に頬を膨らませる。その頬をシュナが指先でいたずらにつついて弄ぶ。


「私は猫じゃないですよ。……でも、一度懐かせたからには、責任を持って可愛がってくださいね?」

「もちろんだとも」


 顔を見合せてくすくすと笑う。最近はこんな風に軽口を言い合ったりもしている。剣を向けられた出会いの夜には、想像もしていなかった状況だ。

 今日呼び出した理由を聞くと、彼は懐から一枚の書面を取り出した。裏面にリナジェインの筆跡で条項が加えられた、この結婚の契約書だ。折り畳んだ紙を広げて手すりに腕を乗せ、視線を手元に落とす。


「お前は凄いな。過酷な中でもしなやかに生きる強さと、無垢で純粋な心を持っている。私には……それが眩しく見える」

「もしかしたら、それが私の長所かもしれません。どんな不条理の中でも、幸せを見つけられること。何も持っていないけれど、私はずっとずっと、幸せでした」


 ささやかな日常の中には、案外色んな愛おしい喜びが散りばめられている。

 それに、人はいつ死ぬか分からないのに、不条理ばかり目を向けていて、素敵なものを見落としては勿体ないと思うのだ。


 賤民として、これまで沢山辛酸を舐めてきた。道を歩くだけで石を投げつけられ、農作業の毎日でいつも身体中泥だらけ。ぼろ切れのような服を着て、年頃の少女らしい楽しみも味わえず、世間から隔絶された片田舎で、夢を見ることさえ許されなかった。でも、そんな中でも幸せなことを見つけるのが得意だった。

 地位も名誉も財も何も持たないからこそ、曇りのない視界で世界を見れるのかもしれない。


「陛下にも、私の幸せをいっぱい分けて差し上げます」

「ふ。お前には与えてもらうばかりだな。……私はお前に何がしてやれる?」


 きっとシュナは、リナジェインの望みなんて分かりきっているはずだ。だからこうして、契約書を持ってきたのだろう。


 ふっと小さく笑いながら、彼の顔を見上げる。


「一緒にいてください。私とずっと」

「――では、これはもう必要ないな」


 そう言って彼は、契約書を破った。風が、破れた紙を宙へと舞い上げる。空高く舞っていく紙の欠片にシュナが手をかざすと、またたく間に凍りついていく。

 拳を握った瞬間、氷をまとう欠片が粉々に砕け散って、残滓が雪のようにゆらゆらと地上に降っていった。


 リナジェインはこの日、二度目の求婚をされることになる。

 一度目は真っ暗な草陰で、首筋に血塗れの剣を添えられた狂気的な求婚だった。そして二度目は、景色の綺麗な城で、真朱色の薔薇の花束と美しい指輪を渡され、甘い口付けと共に求婚された。


 けれど、リナジェインにとっては、一度目も二度目も、同じくらい大切な思い出になったのだった。



 ◇◇◇



 リナジェインは、アンデルス皇国皇帝シュナ・ヴァーグナーのたった一人の妃だった。シュナは生涯彼女以外の妃を迎えず、元賤民の側妃を溺愛し続けた。在位中に彼は、賎民解放令を出して、長く続いた身分制度を撤廃した。


 彼らは、一人の皇女と一人の皇子を授かった。皇女は聖女の力を、皇子は氷を操る新皇家の力を継承し、互いに仲良く支え合いながら国に奉仕したのだった。


 そして、皇女の初恋の相手は、かつて"華の貴公子"ともてはやされた侯爵だったとか――。

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【完結】脅され側妃の白い結婚生活 〜ある日突然、皇帝陛下に剣を突きつけられまして〜 曽根原ツタ @tunaaaa_x

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