第27話 知られざる兄の心
爵位引き継ぎを終えたユリウスは、度々宮殿に赴くようになった。もちろん、リナジェインに会うためだ。名目上は側妃に教養を教える教師として、面会を許可してもらっている。皇帝の妃によその男が気軽に会うことは本来であれば許されないが、シュナはあっさりと許可し、特別待遇にしてくれた。
「兄さん!」
ユリウスを迎え、花が咲いたように満面の笑みを湛えるリナジェイン。昔から少しも変わらない笑顔に心が満たされていく。
今にも抱きつこうとする彼女の額を押さえて阻む。
「こら。人前で抱きつくなよ。それに、兄さんじゃなくて?」
「……ユリウス」
彼女はきょろきょろと辺りを見渡し、人がいることを確認して、複雑そうに呼び方を改めた。今の立場はリナジェインの方が上だ。それに、兄妹として育った複雑な経緯は周囲に伏せておいた方がいいということで、人前での"兄さん"呼びを禁じたのだ。
いつもと違う呼び方をされると、こちらも変な心地だが、そもそも本当は兄と呼ばれる関係ではなかった。
ユリウスにとってリナジェインとは、最初から監視対象の公爵令嬢であり、妹ではなかった。一緒に過ごす内に、情が芽生え、彼女といるときだけは、あらゆるしがらみから開放されたありのままの自分でいられた。
その内に、彼女の無垢さや芯の強さに惹かれていった。
ユリウスはツィゼルト侯爵家の庶子だった。――つまり愛人の子である。家の中で義母や義兄に疎まれ、実父との関係も希薄で、居場所はなかった。愛されずに孤独だった心に、欲しくてたまらなかった温かい何かをいっぱいに与えてくれたのは、リナジェインだった。いつしか彼女は、他の誰にも変えがたい、特別な存在になった。
それは――妹に対する家族愛という言葉には収まりきらない、特別な気持ちだった。
「今朝ね、庭園の薔薇が見事に咲いていたの。一緒に見に行こうよ」
「勉強は?」
「後でいいじゃない。朝が一番綺麗なのに、もったいないもの」
「ふふ、そうだね」
彼女のわがままを拒むことができず、誘いを承諾して微笑むと、彼女も嬉しそうに目を細めた。
昔からリナジェインのお願いには弱い。つい、甘やかしてしまうのだ。
リナジェインは根っからの妹気質だ。ユリウスのことを兄としていたく慕っている。
行方不明になったユリウスを探すために、躊躇いなく賤民にとっては危険地ともいえる皇都に出たという。シュナから聞いたところ、宮殿で衛兵に捕らわれても尚、ユリウスのことばかり案じていたらしい。
(本当に……愛されたものだな)
けれど、その愛情はユリウスのものとは決定的に異なっており、ユリウスが求めているものとは違う。楽しそうに自分の前を歩く、ドレス姿のリナジェインを眺めながら、ふっと苦笑した。
この先も、彼女が自分を男として見ることはありえないだろう。だから彼女への想いは、心の奥底にしまっておくつもりだ。リナジェインはこれまで、沢山の幸せを与えてくれた。
それ以上に望むことはもう何もない。
彼女が笑ってさえいてくれたら。
「兄さ……じゃなくて、ユリウスは大人気だね。見て? あそこのご婦人方がこっち見てる。あなたが来るって聞くと、メイドたちも浮き足立って仕事が疎かになっちゃうらしいの」
「はは、参ったな」
「全く。罪な男ね」
どれだけ数多の女に好かれようと、ユリウスが想うのはただ一人、目の前の彼女だけだ。そんなこと、本人は夢にも思っていないだろうが。
庭園に行くと、煉瓦の花壇に色調豊かな花が咲いていた。
真っ赤な薔薇はアーチ状に整えられ、長いトンネルのようになっており、朝露をまとってみずみずしく輝いている。
「あっ、この花確か、家の近くにも咲いてたよね。よく花冠を作ったっけ」
「お前じゃなくて俺がね。リナは不器用で花をだめにしていただろ」
「ふふ、そうだったね」
花を見つける度に、「冠を作ってほしい」と駄々を捏ねた幼い彼女を思い出す。
娯楽の少ない田舎では、自然を使って遊ぶしかない。都会の娘なら、流行りのアクセサリーなんかを買う楽しみもあったのに、それを味わえないリナジェインが気の毒だと思っていた。しかし、彼女はどんな些細なことでも全力で楽しんでいた。小さな世界の中でも、工夫して楽しみを見出すことができるのは、彼女の長所だ。
側妃になり、皇宮内で苦労もあっただろうに、会うと楽しかった出来事ばかり語ってくれる。下女として潜入して宮殿で働けたことや、親しい侍女との思い出など。リナジェインは、どこでもしなやかに生きる強さがあった。
「お前、どうして側妃になったんだい?」
「え……」
「何か事情があるんだろう」
彼女は、「図星です」と言わんばかりに、決まり悪そうな顔をした。
最初に彼女が側妃に選ばれたと聞いたときは、シュナが聖女の力を手中に収めるためだと考えていた。しかし、シュナは罪のない少女の命を削ってまで力を搾取する真似はしない。
二人が結婚に至った他の理由があるのではないか。けれど、彼女は結婚に至った経緯を頑なに教えてくれない。
「隠してることがあるなら話してくれ。必ず力になるから」
「…………」
黙して俯く彼女。凄く悲しそうな顔をしている。何が彼女をそこまで苦しめているのかは分からないが、ユリウスには話せない事情を抱えているのは確からしい。
「……一緒に逃げようか」
「兄さん……」
「この国を離れて、遠い場所へ。そうしたら、お前を縛るしがらみは何もなくなる。お前のためなら俺は、地位も名誉も、全て捨てても構わないよ」
最初からこうしていたらよかったのかもしれない。田舎で暮らしていたあのとき、全てを打ち明けていたら、もっと違う未来があったかもしれない。けれど、本当のことを話して、男としての自分を拒まれるのが怖かった。だから、何もせずに兄と妹の関係を享受することを選んでしまったのだ。
「その気持ちだけ、受け取らせてもらうね。でもね、私はここにいたい。あのお方の傍に……。少しの間だけでも、あの方の役に立ちたいの……」
また、切なそうな顔を浮かべる。それはユリウスの知らない、愛する男を想う女の表情だった。いつの間に彼女は、こんな大人びた顔をするようになっていたのか。
「お前、まさか陛下のことを――」
「……」
彼女は顔を赤くさせて、沈黙した。しかし、表情を見たらシュナに惚れているのは一目瞭然だった。
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