第28話 兄を想う妹の心

 

 兄に本当のことを話せなかった。

 今まで隠し事なんてほとんどしたことがないのに。シュナとの関係が契約結婚であり、自分は一年後側妃ではなくなると、そんな肝心なことを隠してしまった。


 守秘義務があるからではない。言いたくなかったのだ。きっと守秘義務を破って兄に打ち明けても、シュナは咎めないだろう。でも、もし打ち明けたら、本当に一年で関係が終了してしまう気がして。


(……何を考えてるんだろう、私。言ったって言わなくたって、契約関係に変わりないのに)

 

 兄と別れた後、ひとり庭園に残って考え込んでいたら、ハンカチが落ちているのを見つけた。ひょいと拾い上げて確認する。


(これ、兄さんのだ)


 これからシュナと少し話していくと言っていたので、宮殿に行けばまだ間に合うかもしれない。ハンカチを手に宮殿に戻り、兄の居場所を使用人に尋ねる。


「ああ、ユリウス様なら陛下の執務室に向かわれましたよ」

「ありがとうございます」


 華の貴公子は有名人なので、行く先々で注目が集まる。探すにしても、女の使用人に問えば一発だ。兄ほど探しやすい人はいないのかもしれない。


 執務室へ行くと、僅かに扉が開いていて、兄の声が漏れ聞こえた。


「契約結婚ですって……?」


 完全にリナジェインとシュナのことだ。

 ドアノブに伸ばした手を止め、悪いと思いつつ話の続きを聞く。シュナは占い師の鑑定を受けたことからこれまでの経緯を彼に話した。


「お前の妹は、契約後にお前たち家族の元に返す」


 聞き慣れたシュナの声が、淡々とそう告げる。


 どうしてそんなに簡単に返すなんて言うのだろう。「お前に興味がある」だとか、「気に入っている」とか、散々思わせぶりなことを言っておいて、リナジェインを手放すことが少しも惜しくはないのか。


 ずきん、と胸の奥が痛む。

 自分はただの賤民で、これといって取り柄もなく、この国の太陽に相応しい女ではないと分かっている。なのに、彼に望まれたいと思ってしまう。


「占い師の戯言ごときに、妹が巻き込まれていたとは。予想外です。必要なときだけ傍において、要らなくなったら捨てるのは無責任では?」

「何を言う? 彼女は家族の元に帰ることを望んでいるはずだ」

「陛下は彼女の気持ちを少しも分かっていません。彼女があなたのことをどんなに――」


 ユリウスはしばらく沈黙して、その続きを言わずにこう加えた。


「あなたが今までご自分のことを放ったらかしに生きてこられたことは理解しております。ですがもう少し、ご自分と彼女の気持ちを傾聴してみてください。友人からの助言です」

「それはお前もだろう。ユリウス」

「はい……?」

「お前こそ、リナジェインに対する気持ちを自覚しているのか?」


 リナジェインに対する気持ちとは一体……。

 固唾を飲んで、その答えに耳を傾ける。


「貴様は彼女のことを、妹などとは思っていないのだろう」


 それはつまり――。

 つまり、妹ではなくひとりの女として見ているとでもいうのだろうか。自分とユリウスは、幼少のおりから兄妹として生きてきたのだ。

 血は繋がっていなくても、本当の兄だと思ってている。きっとユリウスだって――


(でも、兄さんにとって私は、出会ったときから赤の他人だった……)


 ユリウスは、玲瓏と答えた。


「彼女には言わないでください。俺の思いが負担になってほしくないので」

「お前のような澄ました男が、誰よりも忍ぶ恋をしていたとは。人は見かけに寄らぬとはよく言ったものだ」


 世間で華の貴公子ユリウスは、女に興味がない男だと噂されている。けれどそれは実際には違って、一人の想い人がいたのだ。そしてその相手は、よりにもよって自分だった。


 ユリウスの気持ちを聞いて、ハンカチを床に落とした。手が震えている。今まで兄妹だと思っていたのは自分だけで、いつからかは分からないが、兄はひとりの女として愛していたのだ。

 そんなこととはつゆ知らず、無自覚に彼をどれほど傷つけてしまったか。


(なんてこと……兄さん……。ごめんなさい、ずっと近くにいながら私……何も気づかなくて、ごめんなさい……)


 取り乱したまま、ハンカチを拾うのも忘れて逃げ出していた。



 ◇◇◇



「お前のような澄ました男が、誰よりも忍ぶ恋をしていたとは。人は見かけに寄らぬとはよく言ったものだ」


 シュナには妹への好意を見抜かれてしまった。

 これまで数々の縁談を断り、一途に彼女だけを想い続けてきた。叶うことはないと分かっていながら。けれど、それを辛いと思うことはあまりなかった。全く切なくないといえば嘘になるが、彼女といられるだけで幸せだった。


「ふふ、澄ました風に見えていましたか? 自分はどこにでもいる弱い男ですよ」

「これからもそうして己の気持ちをひた隠しにし、兄としてあの娘を守っていくのか?」

「はい」


 リナジェインが契約解消後に居場所を失くし、頼ってきたのなら喜んで保護するし、何かあったらいつでも手を差し伸べるつもりだ。

 しかし、彼女の本当の望みは家族の元に戻ることではない。リナジェインは契約結婚のことをユリウスにも黙って、本当の側妃のように振舞っていた。そんないたいけな少女の心を知らず、この目の前にいる朴念仁は、見当違いの勘違いしているようだが。


「そうか。まぁ、お前の元であれば彼女も幸せだろう。私の都合に巻き込んで悪かった」


 彼女のことを語るとき、シュナの表情は柔らかくなる。


(陛下こそ、特定の相手を愛するような方と思いませんでしたよ)


 まして、それが自分の妹だとも思わなかった。如何せん二人とも不器用なので、放っておいたら一向に結ばれない気がする。妹を簡単に取られるのは面白くないので、これ以上の助言はしてやるつもりはない。


「"私の都合"……ね。占い師の予言は、陛下のお命だけに関わる危機なのでしょうか」

「……というと?」

「陛下が三度も死にかけ求婚を決意したことといい、出会ったのが聖女の力を引くリナジェインだったことといい、これらは全て偶然に引き起こされたとは思えません」


 二人が出会うに至るまで、偶然という言葉では片付けられない事態が連続している。


「これらは、後に起こる天災の予兆なのではありませんか」

「聖女と皇帝が力を合わせ、不測の事態に備えろということか」

「ええ」


 リナジェインは、他人の病や傷を癒す力の他に、人の死を予感する力がある。ならば、聖女と新皇家のシュナが協力して、未曾有の危機から民衆を守れという導きではないのだろうか。


「俺は占いには懐疑的ですが、事態が事態なので、このような推測を立ててみた次第です」


 これまで、聖女にまつわる文献を読んできたが、聖女が皇室に入るとき、しばしば自然災害や飢饉、戦が起きてきた。その度、ヴァーグナー家の人間は聖女に傾倒するが、あまり上手くいかず、力を酷使した聖女は死に絶え、ヴァーグナー家の人間だけが生き残ったそうだ。

 シュナは、歴代の皇帝たちとは違ったやり方で聖女に関わろうとしている。もしかしたら、リナジェインは過去の不遇な聖女たちとは違う運命を辿るのかもしれない。


「どうか、妹のことを頼みますよ。陛下」

「ああ。分かった」


 深々と頭を下げて、執務室を出た。


 すると、足元にハンカチが落ちていた。外の土や茎がくっついているので、落としたとしたなら庭園だ。


(リナ……聞いていたのか)


 迂闊だったと、額を抑えてため息をつく。きっと、忘れ物を届けに来て、ユリウスとシュナとの会話を盗み聞きしてしまったのだろう。

 ハンカチを拾い上げて、ジャケットのポケットにしまった。

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