第26話 侯爵家の新当主
広間から離れた場所にあるサロンに案内された。煌めかしい調度品が揃えられていて、目がチカチカする。ユリウスは慣れた様子で、ソファに座るように促しつつ、小声で耳打ちした。
「足、痛いんだろ? 座って休め」
「……!」
「陛下に言われても、無理して踊ることないよ。後で湿布持ってきてやるから」
彼は、リナジェインの古傷のことをよく理解している。ダンスを踊る様子を見て、心配してくれていたのだろう。どうやらシュナの命令で踊っていると思っているらしいが、あくまで自分の意思だった。
過保護な兄の優しさが懐かしい。リナジェインは何も考えられなくなり、ユリウスに飛びついた。涙でぐしゃぐしゃになった顔を擦り付ける。
「兄さん、死んじゃったかと思った……。うう……もう会えなかったらどうしようって、辛かったよ。ひっく……」
「相変わらず、リナは泣き虫だね」
くすりと笑い、慣れた手つきで頭を撫で、ハンカチで涙を拭ってくれた。すると、抱きつくリナジェインの身体をそっと引き剥がしてから、シュナを鋭い眼差しで見据えた。
「兄さん……?」
「お前はそこにいろ」
ユリウスはまたたく間にシュナの懐に入り、拳で殴り掛かる。
「ぐっ……」
くぐもった呻き声を漏らし、腹を抑えながら片足を後退させるシュナ。彼は全く抵抗しようとしない。少し前も似たような光景を見た気がする。後ろに控えている護衛たちが抜剣しようとするのを、手をかざして制する。
「よい。これは私の友人だ」
未だ怒り覚めやまぬユリウスは、シュナの胸ぐらを乱暴に掴んだ。
「よくも妹を側妃などにしてくれましたね。俺はずっとあなたを友と思い、尊敬していましたが、失望いたしました。……なんの罪もない彼女を皇宮に縛り付け、神聖な力を搾取する気分はいかがですか?」
こんなに怒っている兄を見るのは初めてのことだ。というより、兄が怒っているのを見るのも初めてかもしれない。いつも温厚で、誰に対しても優しい彼が、聖女であるがゆえに側妃にされてしまった不幸な妹のために、友に対しても心を鬼にしているのだ。
「毒で瀕死だったのに、突然回復したとお聞きしました。妹の命を削って生きながらえた気分を、教えてくださいよ。陛下」
もう一発、顔を殴りつけた。
「これ以上、彼女から何を奪えば気が済むのですか。生まれながらに身分を奪われ、自由を奪われ、苦労しながらもひたむきに生きていた娘から、遂には命まで奪おうというのですか……!」
震える声でそう言い、再び拳を振り上げる。しかしその拳は、シュナに触れることなく降ろされた。
(違う、兄さん。誤解なの……!)
兄は誤解している。シュナは聖女の力を搾取しようとは考えていない。むしろ、使わないように注意するほどだ。強引に側妃にさせられてしまったが、それ以外は自分の意思だった。シュナの毒を浄化したのも、彼の傍で過ごしているのも。
「リナジェインを苦しめるなら、友であるあなたを殺し、私も命を断ちます」
「妹のために命さえ賭するとは、殊勝な兄だな」
シュナは余裕たっぷりに笑うだけだった。唇から伝う血を袖で拭い、ユリウスを見据えて「やれるものならやってみるがいい」と挑発する始末。一触即発な状態になったので、リナジェインは二人の間に割り込んで、兄を止めるために抱きついた。
「兄さん、やめて。私は苦しい思いなんてしていないよ。陛下を救ったのも、妃になったのも、自分の意思なの。だから、その手を降ろして」
「リナ……」
妹の言葉に怒りを抑え、襟を掴んでいた手を離した。シュナは身をかがめて咳き込んでいる。
「陛下、大丈夫ですか!? 兄が手を出してしまい申し訳ありません。私を思ってのことなのです」
「分かっている。平気だ」
手を伸ばして、口元の血を指の腹で拭う。それから、ユリウスを振り返って言った。
「兄さんは色々誤解してる。陛下はフォンディーノ公爵家との密約も、聖女の力の代償もご存知なかった。陛下に悪いところなんて何も……」
「私を庇うことはない。私はお前に剣を突きつけ、妃になるよう強いた」
「陛下!」
なぜ余計なことを言ってしまうのだろう。あの求婚のことを自白してしまえば、また立場が悪くなってしまうのに。事情が事情だったのだから、隠しても咎めはしないのに。
(私の周りの人は、みんな実直すぎる)
友だちを庇うために上司に楯突いたジニーも、虐められている下女を助けにきたヴィクトリアも。子どものために皇帝に土下座して懇願する両親も、妹のために皇帝に刃を向けることをいとわない兄も。
影日向なく、真っ直ぐで愛情深い人たちだ。
「兄さん、違うの。これは……」
「もういいよ。分かってた。俺の知る陛下は、曲がったことが嫌いで摯実な男だってね。ただ、権力に翻弄され続けるお前が不憫で……」
ユリウスはソファに腰を下ろし、これまでの経緯を語った。ほとんどシュナの推測した通りだった。
フォンディーノ侯爵家の忠臣であるツィゼルト侯爵家の庶子だったユリウスは、捨てられた名もなき聖女の監視役を与えられた。何か不都合が起きたとき、殺すのも彼の役目だった。しかし、兄のように共に育つ内に、監視対象以上の愛情が芽生えたのだという。
ユリウスは「騙していてごめん」と何度も謝罪をしてきた。実家の両親と同じように。リナジェインは、両親に言ったのと同じように、謝るべきことは何もないと兄を宥めた。血の繋がりがあろうとなかろうと、自分たちは家族なのだと。
突然失踪したのはやはり、侯爵家の前当主と長子が急死したためだった。動揺していたために、黙って家を出てしまったらしい。
そして、彼は懸念している点があった。他でもなく、リナジェインの生家であるフォンディーノ公爵家について。公爵の目的は、血族を皇座に据えて、旧皇家を再興させること。そのためにはどんな手でも使う人なので、皇宮にいるリナジェインにも危険が及ぶかもしれないというのだ。
(知らないだけで、私の立っている場所は、他よりもずっと足場が脆かったんだ)
リナジェインは、生まれたときから複雑な権力争いの渦中にいたのだ。けれど、両親や兄の元で、ずっと守られていた。物理的ではなく、精神的に。彼らは複雑な事情をリナジェインに隠し、自分たちだけで抱えてきたのだ。
「きっと大丈夫だよ。兄さん」
険しい表情の兄に微笑みかける。
「何が起きても、兄さんがいてくれるから。私ね、気は小さいけど、結構しぶといの。絶対に負けないから。だから大丈夫」
悲願が叶い兄と再会を果たしたリナジェインは、言ってみれば無敵だ。無邪気な笑顔を見たユリウスは、「逞しい妹だ」と苦笑していた。
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