第19話 窮状を憂う皇帝の心
馬車は近くの市場に向かっていた。
あまり整備されていない凸凹道に、馬の蹄が音を立てている。
リナジェインは、先程の自分の発言を思い出していた。両親に対し、「陛下の役に立ちたい」という言葉が口をついて出ていた。いつの間にか自分がそんなことを思っていたことに驚く。シュナはふいに憂いを帯びているときがあり、放っておいたら消えてしまうのではないかと不安になることがある。すでに一度、死にかけている彼を目にしている。あのときシュナを襲撃したのは、かつて対立していた勢力の残党だったそうだが、命を脅かされて生きるのは、並の精神では耐えられないことだ。そんな彼の支えになりたいと、願ってしまうのはどうしてだろう。
リナジェインたちは、市場で保存の効く食糧を沢山買った。干した果物にパン、加工肉などだ。貧民街に行き、それを配る。
「ありがとうございます、旅のお方」
「ああ、これで当分食いっぱぐれることはなかろう。ありがたい」
人々は口々に感謝を述べた。少し前までは施しを受ける側だったのに、する側になっているなんて、妙な心地だ。子どものころ、リナジェインも気のいい旅人に珍しい菓子を与えてもらい、兄と半分にして食べたのを覚えている。ユーフィスは菓子を分け合うとき、いつも大きい方を譲ってくれた。
「旅のお方……! どうか、この子を医者に診せてはいただけませんか……っ。このごろずっと具合が悪くて……。なんでもしますから、何卒……」
薄汚れた装いの女が、リナジェインとシュナの前に出て、腕に抱く赤子を見せた。赤子らしくなく頬はやつれ、栄養失調気味だった。しかし、それより気になるのは母親の方だ。嗅ぎなれた独特の匂い――死の匂いがする。この女はそう遠くない内に何かの事件に巻き込まれて惨い死に方をする。生臭い血の匂いが鼻腔の奥に広がった。
身をかがめて、子どもの匂いを確認する。
(子どもの方は大丈夫そう。……少なくとも、今は)
リナジェインは女に背を向けて、砂糖が包んである紙に右手をかざした。シュナがその右手を取り上げて尋ねる。
「何をするつもりだ?」
「これに治癒力を付与します」
聖女の力には代償があると分かったばかりだが、弱っている赤子と母親を見過ごすことはできない。シュナは不服そうだったが、「どうせ止めても無駄なのだろうな」と言って手を離した。呪文を唱えると僅かに手の先が発光した。
(あの親子に天の加護を)
砂糖の包みを握り締め、再び母親に話しかけた。
「……お母さん、その子どもにこの薬を水で溶かして飲ませてあげてください。こっちの包みはあなたの分です。きっと元気になります。良いことが起こるように祈りを込めました」
「ありがとうございます……!」
女は涙ながらに何度も頭を下げた。薬を与えても、女の死の匂いは消えていない。彼女の運命を変えることはできないようだ。
(……力になれなくてごめんなさい)
賤民たちは、列をなして施しを受けた。シュナは後方で、静かにその様子を眺めている。一見平然としていて、冷たい表情に見えるが、貧しい者たちに心を砕いていることをリナジェインだけは知っている。手元の食糧が尽きたので、シュナのところに戻ると、彼がこちらの顔を覗き込んだ。
「元気がないな」
そんなに顔に出ていただろうか。悩んでいたのは、あの親子のこと。母親が死ねば、余程運がなければ子どもにも未来はない。リナジェインは残酷な運命を知っていながら、見て見ぬふりをするしかなかった。
「……赤ちゃんを抱いたあの女性は、もう間もなく殺されます。悪漢か何かに。きっと、あの子どももその内亡くなるでしょう。あの方たちが気の毒で……」
「他人の死期が分かるというのも、残酷だな」
「私の手には余る力です」
これまでも幾度となく、死の匂いを漂わせる人とすれ違い、目をつぶってきた。やるせなさを感じながら。
「死は、私たちのすぐ近くに横たわっています。飢えや病に事故……色んな理不尽が世の中には溢れていて、無情に降りかかるのです」
賤民として生きてきたリナジェインも、過去に何度も自分の死の匂いを嗅ぐことがあった。人々が日常の中で目を背けがちな"死"に、リナジェインは強制的に向き合わされてきた。
「だが、険しい環境を生き抜く底力としなやかさがあるのが人間だ。不条理だけが全てではない。苦難を乗り越えた人間は必ず光を掴む」
するとシュナが、「そうだな……」と小声で呟いた。
「修道院にあの親子を送る。修道院の庇護下であれば、運命も変わるかもしれん」
シュナは親子を呼んで部下の元に預け、端的に指示を出し、まもなくリナジェインの隣に戻ってきた。
「お前の手に余るというのなら、私が共に抱えてやる。やるせない思いも少しは軽くなるだろう」
「陛下……」
おもむろにシュナを見上げると、なんでもないような顔で貧民街を見据えていた。いつも身につけている、長めのチェーンにエメラルドがついた女物の耳飾りが、風に揺れている。彼は、リナジェインにできなかったことを、ごく自然にさらりとやってのけてしまった。親子への配慮だけでなく、リナジェインへの気遣いまでしてくれている。
(陛下は、お優しいお方。氷の皇帝なんかじゃない。まるで陽だまりのように温かな心をお持ちでいる)
泣きそうになりながら、ぼんやりと彼の顔を見つめていると、急に彼の目つきが鋭くなる。眉間に皺を寄せながら、声を上げた。
「よせ!」
その言葉を送ったのは、剣を構える二人の護衛騎士。そして、剣先が向くのは、拳を振りかざしこちらに突進してくる中年の賤民の男。シュナの指示に、賤民を斬り捨てようとする騎士の動きが静止する。しかし、賤民の男は拳でシュナの頬を殴った。
「きゃあっ! 陛下、血が……!」
シュナはそのまま男の腕を掴み、腰をひねりながら足を蹴った。男はあっという間に地に伏せていた。男はシュナを睨みつけながら叫んだ。
「俺たちばっかりなんで惨めな思いをしなきゃなんねぇんだ! あんたらはずりぃよ。飢えを耐え忍ぶ気持ちなんて知りもしねぇで、施しをして越に浸ってればいいんだからよぉ」
飢えと貧困にあえぎ、豊かな人間に対する憎しみが募っているのだろう。
(ああ、この人からも死の匂いがする。きっと殺されてしまう)
皇帝に暴力を奮ったのだ。賤民の男は問答無用で斬首刑だろう。護衛騎士が乱暴に男を拘束し、今にも首を跳ねる勢いで、シュナの指示を仰いでいる。賎しい罪人が、自分と重なり切なくなる。――しかし、直後。賤民の男から死の匂いが消失した。シュナの低い声と同時に。
「捨て置け」
「で、ですがこの者は陛下に大逆の罪を……」
「その者を許す」
「はっ」
更にシュナは、地に転がった男の横に、金の入った皮袋を投げ捨てた。リナジェインはその様子を、呆然と眺めた。シュナは何も言わずにリナジェインの手を引いて馬車に戻った。馬車の中で、彼に言った。
「すぐに治癒を……」
「やめろ。不自然に傷が治れば、不審に思われるだろう。闇雲に力を使うなと何度言えば分かる?」
「でも、陛下が怪我をしたのは私の責任です。私が貧民街に行くなんて言ったから……」
「あの者の拳を躱さなかったのは、自らの意思だ。お前が気にすることはない」
シュナはそう言って、充血した頬を指先で触わった。
「これは戒めだ。あの者たちの痛みは、こんな傷一つでは済まされないのだから」
こう言われては、引き下がるしかなかった。ただ、皇帝を危険に晒してしまった浅はかな自分を責めることしかできない。しかし同時に、あの賤民を見逃したシュナを見て、心が揺さぶられた。
あの男から死の匂いが消失したとき、自分まで救われたような気分になった。リナジェインは昔、良民の前を歩いたというだけで、身に余る折檻を受けて大怪我をした。シュナが罵られ、あまつさえ殴られても男を許したことで、遠い昔の自分も助けられた気分になった。
「陛下」
リナジェインは手を伸ばして、シュナの頬を撫でた。彼は藍色の目を瞠く。
「お前、何を――」
「私は賤民として痛みを沢山味わってきました。でも、あなたが傷つくのを見るのは辛いです。あなたが贖罪に傷を受けても、私は救われません。だからどうか、もっとご自分を大切に……」
初めてシュナに会った日も、宮殿に侵入した咎人であるリナジェインを助けてくれた。それが正しいかどうかは置いておいて、誰かが賤民である自分に情けをかけてくれたことは初めてだった。
シュナを抱き締め、掠れた声でひと言、「あの人を生かしてくれてありがとう」と呟いた。
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