第30話 生き別れた姉妹の最悪な再会

 

 よりにもよって、シュナに足の古傷を見られてしまった。気味が悪いと思われただろうか。いや、そんなことを思う相手ではないが、彼に歪な足を見せたこと自体がショックだった。



「リナジェイン。お前まさか……私に惚れているのか?」



 彼に言われた言葉を思い出す。

 心に芽生えた淡い恋心は、あっさりと見抜かれてしまった。

 好きになったとして、成就するはずがないのに。賤民の自分は、とてもあの人に相応しくない。分かっているのに、何かを期待してしまう自分が恨めしい。


 シュナから逃げ出して、早足で歩いていたら、道の途中でまた転んでしまった。転んだのがちょうど芝生の上だったので、怪我はしなかったが、綺麗なドレスが土や草で汚れた。今朝は雨が降っていたので、土がぬかるんでいる。しかし、構わずに地面に手を着いて、起き上がる気力さえなくぐすぐすと泣いた。


(なんで私はこんなに不甲斐ないのかな)


 何も悪くないシュナに八つ当たりなんかして。泣いたり責めたりして、みっともない。彼の優しさに甘んじて無礼を働いた愚かさに、ほとほと呆れてしまう。

 これまで抱えてきた精神的疲労が、今になって溢れ出し、心の中がぐちゃぐちゃになっていた。

 するとそのとき――芝生を踏み歩く音がして、俯いた視線の先に女の足元が映った。


「そんなところで泣いて、どうされたのですか? お姉様」


 顔を上げると、自分と瓜二つの顔をした妹のアージェリアが立っていた。柔らかな笑みを浮かべてこちらに手を差し伸べているが、どこか威圧的で、その手を取ることははばかられた。リナジェインに手を取る気がないと理解すると、彼女はその手を引いた。


「慣れない宮殿での暮らしが、よほどお辛いのでしょうね。私の小鳥さんたちを服従させる度量があるほどですから、豪胆な方だと思っておりましたが……なんと情けないお姿」

「小鳥……?」

「ふふ。宮殿の中に、私の息のかかったメイドたちを忍ばせていたのですよ。あなたの悪評を吹聴し、宮殿内で孤立化させようと考えていたのですが……あえなく失敗してしまいました」


 アージェリアはくすくすと可憐に笑い、目を細めた。皇室に入ったとき、使用人たちから嫌われ冷遇されたのは、彼女が餌をまいていたからだったのだ。

 元々賤民に偏見のある使用人たちをそそのかし、虐げる風潮を作り上げるように裏で糸を引いていたのだろう。


「すぐに根を上げて逃げ出すかと思っていたのですが、軟弱そうなのは見た目だけで、思いの外図太いのですね」

「どうしてそんなことを……」

「決まっているではありませんか。あなたを追い出すためです。同じ家出身の妃は二人も要りません」


 すると、彼女はリナジェインの顎を持ち上げた。


「なぜ、あなたなんかが側妃なのです? なぜ、あのお方の隣にいるのが私ではないのです?」


 彼女が皇妃を望むのは、家のためなのだろうか。こちらを見下ろす真朱色の瞳は、女の恋情が滲んでいるように見えた。


(この人……陛下のことが好きなんだ)


 家では妃になるためだけに教育され、肝心のシュナには拒まれ、彼女もまた辛かっただろう。


「同じ顔なのが尚更憎らしいです。私はずっと昔から、あの人をお慕いしていたのに」

「痛い……っ」


 アージェリアは憎らしそうにこちらを見ながら、耳飾りを強引に引っ張った。耳たぶが裂けて、血が流れる。


(陛下にいただいた耳飾りが……)


 取り上げられた耳飾りを取り戻そうと、手を伸ばす。しかし、するりとかわされてしまった。彼女はそのまま、自分の耳に着けて、それを指先で撫でた。右耳が裂かれた痛みも忘れ、アージェリアの耳に煌めく耳飾りを呆然と見上げる。


「その表情……いい気味です」


 彼女は、恍惚と目を細めた。


 するとその直後。目の前に黒い外套を着た男が現れて、アージェリアに剣を向けていた。顔はよく見えないが、彼はシュナが付けてくれた影だと理解する。見えないところで、皇宮内のリナジェインの庇護を任されていた人物だ。

 お目にかかるのは初めてだが、危機に駆けつけてくれたということは、きちんと任務を遂行していたということだ。


「今までの振る舞いは見せていただきましたが、目に余るものです。側妃殿下への暴行は、公爵令嬢でも許されません。投降していただきます」

「まぁ。よく躾られた駄犬ですね。血の気が多くて怖いこと怖いこと。でも――」


 ふっ、と余裕たっぷりに嘲笑の笑みを浮かべたかと思うと、次の瞬間影の男が血を流しながらその場にうずくまった。


「ふふ、女だからと見くびっていると痛い目を見ますよ。あなたは、駄犬らしく地に転がっているのがお似合いです」


 アージェリアは血に濡れた短剣を手に持っている。血で汚れた剣を横に振り、付着した血液を払い落とした。


「うっ……」

「あなた、しっかりなさって……!」


 男を揺するが、呻き声を漏らした後、意識を失った。血が流れ続けていて、死の匂いが香る。すぐに治癒をしなければと思い、刺された下腹部に手をかざす。呪文を唱えようと唇を開きかけたが、アージェリアに汚れた剣を首筋に突きつけられた。


(……!)


 誰かにこうして首筋に剣を向けられるのは人生で二度目のことだ。しかし今回は、本気の殺意を感じる。


「動かないでください。――あなたたち、二人を連れていきなさい」

「はっ」


 彼女の呼びかけに、どこからともなく出てきた男たちが答える。リナジェインは為す術なく腹部を殴られ昏睡し、肩に担がれた。



 ◇◇◇



 リナジェインと護衛の男を皇宮の外に連れ出させた後、リナジェインと入れ替わったアージェリアは、彼女のドレスに着替えた。

 全て手はず通り。父と共謀し、時間をかけて皇宮の使用人たちを買収していたため、彼女たちを連れ去るのは簡単だった。


 今ごろ彼女たちは、フォンディーノ公爵家のタウンハウスに移送されているころだろう。護衛の者については、不慮の事故で死んだことにでもしておくつもりだ。


 私室の部屋の中で、鏡に向き合いリナジェインの表情を作る。彼女はいつもおっとりしていて、眉尻が少し下がった自信のなさそうな顔をしている。口角は普段のアージェリアよりも低めに。指で頬を押して、表情を調節する。


(こんなものでしょうか。我ながらそっくりな顔……)


 これからアージェリアは、替え玉として宮殿で過ごしていく。アージェリアとしての表情は捨てなくては。


 後ろに控えているリナジェインの侍女に指示を出す。


「今日は念入りに身体を清めてください。私にとって、とても大切な日になるので」

「はい。リナ様」


 リナジェインは侍女ごときに"リナ様"などという愛称を呼ばせているらしい。下々の者と馴れ合うとは、貴族との矜恃はないのだろうか。しかし、双子が入れ替わっていることに、親しい侍女さえ気づかない。

 入浴して身体を隅々まで清めた後、夜にシュナを寝室に招いた。

 本物のリナジェインの方は、夫であるシュナと一度も共寝をしていないそうだ。年若い彼女に妃の務めを求めるのは性急だという気遣いなのだろうか。しかし、シュナとて男だ。全くその気がないということはないだろう。


 ヴィクトリアとジニーを部屋から追い出し、もう一度鏡台の前で身なりを整える。昼間にリナジェインから取り上げた耳飾りを、自分の右耳につけた。


(この耳飾りは、皇后陛下の物だったはず。母親の形見をあげてしまうなんて、陛下はよほどリナジェインを信頼しているのですね)


 自分の耳に揺れる飾りを眺めながら、悔しさで固く拳を握った。妃候補として頑張ってきた自分には少しも見向きもしなかったくせに、よりにもよってなぜ姉なのだろうか。


 小さくため息を漏らし、家から持ってきた二つの小瓶を取り出した。この二つは、特殊な効能がある薬だ。一つは、香水のように自らに振りかけると、相手の情欲を高める媚薬のような効果がある。もう一つは飲み薬で、これを飲むと妊娠の確率が著しく上昇する。

 彼を誘惑するための香水を首や手首に振りかけて、飲み薬を飲んだ。


 鏡には、可憐な自分の姿が映っている。気高く凛とした自分の姿が。けれどもう、アージェリアは死んだ。これからは、公爵家の令嬢でありながら賤民として育ち、皇帝に見初められて身分を取り戻した数奇な姫――リナジェインとして生きていくのだから。


 近い内に、リナジェインに扮したアージェリアを公爵家のもう一人の娘として世間に公表し、世継ぎを産ませる。それがフォンディーノ公爵の新しく考えた妙案だった。つくづく狡猾でろくでもない男だ。


(けれど、これでようやく……)


 しかし、これで好きな相手に抱いてもらえるのだと心が高揚する。

 ずっと、あの人のことが好きだった。口数が少なくあまり笑いもしないが、優しくて崇高な心を持っている彼のことが。家の道具にされて、孤独だったアージェリアにとって彼の崇高さは眩しく見えた。彼にずっと、恋焦がれていた。


 まもなく、扉がノックされて、彼が入ってきた。仕事のときの姿とは違う夜着姿に、きゅんと胸がときめく。シルクのナイトドレスを揺らしながら、彼の元に歩み寄る。


「すまなかった」

「え……?」

「昼間のことを話したくて私を呼んだのだろう?」

「あ……ええ。そうです」


 一体なんの謝罪だろう。開口一番謝られて困惑するが、とりあえず話を合わせてみる。


「私が悪かった。お前の気持ちを考えずに、色々と配慮に欠けたことをしてしまった。反省している」


 かなり気を遣った話し方に驚く。誰に対しても尊大な態度で、女性にあまり気を遣うような人ではなかったのに。


「いいえ。謝らないでください。私も悪かったんです。あなたをお呼びしたのは、その……仲直りがしたくて」

「仲直りか。ああ、そうしよう。私を許してくれるのか?」


 なんて、優しい眼差しなんだろう。愛する人を見る男の目だ。リナジェインはいつも、彼のこんな顔を独り占めしているというのだろうか。アージェリアといえば、いつもきつく睨まれてばかりだったのに。


「もちろんです。もうちっとも気にしていませんから」


(……リナジェインは、ずるいです)


 嫉妬にずきんと胸が痛む。けれどそれ以上に、ようやくシュナに近づくことができて嬉しかった。リナジェインとしてでも、たった一夜だけであっても、この人に触れられる関係でいられるなんて、夢のようだ。


 アージェリアは頬を朱に染めて、彼の裾を摘んだ。


「なんだ?」


 潤んだ瞳で見上げると、彼は戸惑ったような表情を浮かべた。鉄面皮の彼が、こんなに表情を変えるのは、きっとリナジェインの前だけだ。

 おずおずお手を伸ばして、シュナの頬に触れた。彼はそれを拒まない。ずっと触れてみたかった肌は、滑らかで温かかった。


「今夜、あなたに触れてほしいです。どうか私を、妃としての務めを果たせない惨めな女にはしないでください」

「お前は……」


 シュナは少し眉を上げて、間を置く。しかし「……分かった」と頷いた。


 ようやくこれで、悲願が叶う。愚かな父の道具に成り下がってでも、ずっとこの場所を虎視眈々と狙ってきた。ようやく彼の身も心も自分のものになる。

 アージェリアは、天蓋付きの大きな寝台に押し倒された。靴を脱がされ、シュナの節ばった手が左足を撫でた。


「――綺麗な足だ」

「そのようなことは……」


 気恥しげに微笑むと、彼に組み敷かれて上から見下ろされた。徐々に彼の顔が近づき、そっと瞼を閉じる。すると、彼の手が耳たぶに触れて、金属の音がした。


(耳飾りが外された……?)


 はっとして目を開けると、凍えるような眼差しでこちらを見つめるシュナがいた。


「私の妃をどこに隠した? アージェリア」

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