第31話 大好きな人

 

 気がつくと、冷えた床の上に寝ていた。両足首に足枷がついてきて、伸びた鎖が壁に繋がっている。窓はなく、鉄格子の向こうの照明のほのかな光だけが頼りだ。

 リナジェインの隣で、影の男が倒れていて、荒い息をしている。


「お目覚め……ですか、殿下。私が不甲斐ないばかりにお守りすることができず……申し訳ございません」

「それより、怪我の具合は……」

「急所は避けていますが、少々深く……。お恥ずかしい話です」


 男は脂汗をかいていて、顔色もかなり悪い。あれから時間が経過しているので、かなり出血したはずだ。男のシャツをめくり、患部に手をかざして唱える。


『――万物の源よ。我が力になり、かの者の傷を癒せ』


 ほのかな光が彼を癒し、切り傷を塞いでいく。


「この力は……聖女の力、というものでしょうか」

「はい。この国の人々は、そう呼ぶそうですね」


 彼は体を起こし、完全に塞がった傷を見て感心している。しかし、リナジェインがなぜ聖女の力を行使できるのかと、詮索してこようとはしなかった。


「守る立場でありながら、命を救っていただくとは、かたじけない。私はレイゼルと申します。賤民でしたので、姓はありません」


 彼いわく、皇宮から連れ出された二人は馬車に揺られてここに来たらしい。宮殿を出て半日ほどしか経っていないことから、皇都内ではないかと彼は推測していた。

 この檻の中に、死の匂いが充満している。もう少し具体的にいえば、リナジェインとレイゼルのものだ。なんとか脱出できないかと身じろいでみたが、枷のせいで行動範囲が制限される。


(このままじゃ、いつか二人とも消される)


 アージェリアたち公爵家が何を企んでいるのかは分からないが、ろくでもないことには違いない。

 こんなことになるなら、最後にシュナと話したとき、ひどいことを言うのではなかったと反省する。このまま殺されてしまったら、死んでも死にきれない。


 アージェリアに引き裂かれた耳たぶが、ずきずきと痛んだ。


 ほどなくして、檻の奥から足音が近づいてきた。レイゼルがリナジェインを庇うように腕を伸ばす。鉄格子の前までやって来た男は、解錠して中に入った。


「ようやく会えたな。元気にしていたか? ――我が娘よ」


 小綺麗な礼服に身を包んだ初老の男は、真朱色の瞳をしていた。その色は、神聖を示す旧皇家の証だ。


(この人が、私の父……)


 何をされるのかと恐怖で身が竦み、喉の奥がひゅっと鳴った。


「……随分と手荒なお出迎えですね。フォンディーノ公」

「はは。当家ではこうして客をもてなす習わしでな」


 どんな物騒な習わしだ。


「私たちのことを、どうなさるおつもりですか」


 恐る恐る尋ねると、彼は不敵に口角を上げた。


「君の能力で分からないかね?」


 死期が近い人間の放つ匂いを嗅げる能力のことをほのめかしているのだと理解し、唇を噛む。


「殺すなら私だけにしてください。その者はどうかご容赦を」

「ふっ。自らを犠牲にしても他人を助けようとは、私の娘にしては殊勝だな。まぁ、すぐには殺さんよ。君の聖女の力は利用価値がある。死ぬまで我が家のために奉仕させてやろう」


 本当にこの男は、自分の父親なのだろうか。まるで、人の皮を被った悪魔だ。子どものことを道具としてしか見ていない。


「それにしても、お前はアージェリアと瓜二つだな。父親の私さえ見間違うほどに。お前のおかげで、ようやく彼女を側妃に据えることができた」

「まさか、私と入れ替わって……」

「ご名答。あれは小狡い娘だ。今ごろ上手くやっていることだろう」


 誘拐の理由が、アージェリアとリナジェインをすり替えるためだったと理解する。けれど、双子でいくら見た目がそっくりとはいえ、いつかはバレるだろう。

 そうまでして、権力を欲するとは馬鹿げている。


「アージェリアの子を皇座に据え、必ず一族を再興する。これでようやく、悲願に近づくという訳だ」

「あなたたちの思い通りにはなりませんよ」

「なんだと……?」

「嘘は必ず露見します。それに、アンデルス皇国の統治者に相応しいのは、あなたなんかじゃない。シュナ・ヴァーグナー陛下です」

「貴様。言わせておけば、抜かしおって……」


 公爵は剣を抜き、リナジェインの足元に突き立てた。


「醜い足だ。右足も、左と同じように傷つけ、二度と歩けないようにしてやろう。さすれば君は、この地下牢から逃げ出すことはおろか、歩くこともできまい」


 下卑た笑みを湛え、剣先を右足に突き立てる。僅かに痛みが走り、顔をしかめる。


「私の妃に触れるな。下郎め」

「ふぶっ……」


 その刹那。公爵は吹き飛んで、壁に激突し昏睡した。手放された剣が床に転がる。


 目前に、シュナが立っていた。深い海の底のような藍色の瞳が、リナジェインの姿を映している。


「へい、か……」


 助けにきてくれたのだ。彼の姿に安堵してほろほろと涙が零れる。シュナはその場にしゃがみ込んで、リナジェインを抱き締めた。


「もう大丈夫だ。遅くなってすまない。……またお前に辛い思いをさせた」

「いいえ……私は平気です。助けに来てくださって、ありがとうございます」


 もう二度と会えないかと思った。こうして目の前に現れてくれただけで、どんなにか嬉しく思う。シュナは体を離し、痛々しく裂かれた耳たぶを見て眉をひそめた。

 それから彼は、剣を引き抜いてリナジェインとレイゼルを拘束する鎖を斬った。レイゼルが深く頭を下げて詫びる。


「全て私の失態です。殿下をお守りしきれず、お詫びのしようもございません。どうぞ、罰をお与えください。この命を持って償います」

「よせ。リナジェインに救われた命なのだろう。ならば今後はより真摯に任務に励み、此度の失態を挽回しろ」


 シュナは、血に染ったレイゼルのシャツを見て、リナジェインが治癒を施したことを察したようだった。レイゼルはまた深く一礼し。「仰せのままに」と答えた。

 シュナは、泣き続けるリナジェインをちらりと見てから、レイゼルに指示を出した。


「お前は先に、外にいる騎士たちと合流しろ」

「はっ」


 レイゼルは立ち上がり、牢の外へと出ていった。シュナは切なげにこちらの顔を覗き込む。


「泣かないでくれ。もう、何も心配は要らないから」

「ごめんなさい……どうにも、止まらなくて……」

「……お前が泣いている姿を見ると、胸が張り裂けそうだ」


 胸が張り裂けたら大変だ。なんとか唇を引き結んで涙を堪えるが、少ししたらまた、どばっと洪水のように涙が溢れ出した。


 彼は少し汗ばんでいて、急いで駆けつけてくれたのだと分かる。


「リナジェイン。……――お前との契約を……ここで解消する。お前はここまで、よくやってくれた」


 突然の宣告にはっとして、目を見開く。


「これ以上お前を傷つけたくない。契約前に言った通り、皇宮にいる限り危機は起こりうる。今後の暮らしに不足ないよう、住居や使用人も与えるから、宮殿を出ろ」


 嫌だ。絶対に。もしここで妃をやめてしまったら、あの占い師の予言通りシュナに命の危機が訪れるかもしれない。

 そしてそれ以上に、彼の元を離れるのが耐えがたい。人一倍臆病で、怖いことも痛いことも大嫌いだ。でも、怖い思いをしたって構わないから、せめて残りの契約期間だけでもいいから、この人の傍にいたい。


「嫌です……っ。その申し出だけは受け入れたくありません」

「お前は優しいから、私を案じてくれているのだろう。だが、心配は無用だ。どうか言うことを聞いてくれ」

「違う、陛下は私のことを少しも分かってない」


 彼の服の袖を掴んで、掠れた声で告げる。


「好きだから……っ。あなたのことが好きだから、お傍にいたいんです。……死なせたく、ないです……」

「!」


 ひっくひっくとしゃくり上げて子どものように泣き、袖で涙を拭う。もう自分の気持ちを偽ることができない。溢れ出す気持ちを伝えずにはいられない。一年だけでいい。シュナに降りかかる災難が過ぎ去るまででいいから、手放さないでほしい。


「……後悔しても知らないぞ」

「しません。絶対に」


 すると、シュナの形のいい手が伸びてきて、リナジェインの頬に添えられた。顔を上向きにさせられ、次の瞬間口付けされる。リナジェインも拒まずにそれを受け入れた。少しだけ強引な口付けの後、彼が囁く。


「私もお前が好きだ。――リナジェイン」

「…………っ」

「本当、ですか? 嘘じゃ……ない?」

「ああ。本当だ」


 これは、夢なのだろうか。賤民として疎まれるばかりだった自分が、なんの取り柄もない自分が、好きな人に想ってもらえるなんて。けれど、唇に残る温かい感触が、夢ではないのだと実感させてくれる。


「生き延びるためではなく、ただ私の傍にいてくれるか?」

「はい。もちろんです」


 こくこくと頷き、目を細める。彼は懐からあの耳飾りを取り出し、リナジェインの手に握らせた。アージェリアから取り返してくれたようだ。


「これをお前に」

「……取り返してくださったんですね。ありがとうございます、陛下」


 耳飾りを両手で包み、胸元に抱き寄せる。


 アージェリアの入れ替わりを見破ったということは、彼女は皇帝を欺いた罪を問われるのだろう。

 牢の中で転がっている公爵を含め、親子共々相応の末路を辿ることになる。血の繋がりのある家族だが、同情する心は湧いてこなかった。

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