第34話 最後の試練
ユリウスの馬の前に乗せてもらい、街を行く。
「兄さんあっち!」
「了解。しっかり捕まってろよ」
「うん」
手網を握り締め、揺れに耐える。
石畳の道を、馬が蹄の音を立てて進んでいく。次々と映っていく街の景色を横目で眺めながら、嗅覚を研ぎ澄ませた。
シュナの対応により、街中の鐘が鳴らされて、住人は避難を促されている。警報を聞いた人々はかなり混乱していた。
すれ違う街の人たちは、馬に乗ってどこかに向かう宮殿の使者一行を見て、何事かと噂話をしている。
(また匂いが濃くなった)
宮殿を出て十数分。
角を曲がってある通りに入ったところで、死の匂いが強くなった。そして、木造の飲食店の前で馬を停めさせた。
(……遅かった)
すでに一階の窓から煙が上り、付近の建物にも燃え移っている。恐らく、厨房が出火元だろう。看板を見ると油を扱う揚げ物屋のようで、激しい火力にも納得した。
連れてきた兵士たちは、大慌てで消火水を探し始めた。民家は火災に備えて、玄関先に水を貯めた桶を置いておくのを義務付けられているのだ。
火事に気づいた住民たちが逃げていく一方で、店の前から微動だにしない若い夫婦がいた。ユリウスが早く逃げるように促したが、女の方は聞く耳を持たず顔を横に振った。
「子どもが……子どもがまだ建物内に……っ。誰か、あの子を助けて……」
今にも燃え盛る火の中に飛び込んでしまいそうな勢いの母親を、夫がなんとか繋ぎ止めている。
すると、ユリウスがなんのてらいもなくバケツの水を頭から被って立ち上がった。何をしようとしているのか察し、彼の腕を掴む。
「兄さん!? まさか、あの中に行くつもり!?」
「放っておけないだろ。お前はご夫婦と一緒にいてあげて」
にこりといつもの爽やかな笑みを口元に浮かべた。掴んでいた腕はリナジェインの手からすり抜ける。彼は、火の中へと姿を消してしまった。
兵士たちがバケツリレー形式で水を運び、火が燃え広がるのを止めようと試みているが、ほとんど効果はない。
(兄さん、どうしよう。私、どうしたら……)
心臓がどきどきと波打ち、身体中の血の気が引いていく。あんなに燃え盛る火の中に行って、無事でいられるはずがない。自殺行為だ。祈るような気持ちで待っていると、玄関口から男の子が飛び出してきた。
「ママーーっ!」
「リアン……ああ、無事で良かった……」
少年は母親に抱き着いて泣きじゃくった。母親も我が子の無事を涙ながらに喜んでいる。
しかし、待てど暮らせどユリウスは戻ってこない。
「でも……助けてくれたお兄ちゃんが、倒れてきた柱の下敷きになって……」
「……!」
少年の口からそれを聞いて、考えるより先に体が動いていた。ユリウスがしたように頭から水を被って店内に入る。左足の古傷が疼くのを感じながら、燃える店の中を踏み歩いた。
左足に怪我をした日。良民から折檻を受けたあの日も、ユリウスは危険を顧みずに幼いリナジェインを助けに来てくれた。ならば自分も、兄の危機を見過ごす訳にはいかない。リナジェインは軟弱で、体力もない。行ってもなんの役にも立たないかもしれないが、じっとしていられなかった。
燃えたぎるフロアを進むと、ユリウスが柱の下敷きになっていた。
「兄さん!」
彼はこちらの姿を見て、目を見開いた。
「どうして来たんだ! 外で待ってろって言っただろう。この分らず屋が……っ」
「兄さんのこと、放っておける訳ないでしょ」
木の柱の下に手を入れて、持ち上げようと力を入れる。しかし、リナジェインの細腕ではびくともしない。柱は高熱で、触れる指が痛む。
「熱っ……」
「早く逃げろ。俺のことはもういいから」
「嫌だ! 絶対に一緒に帰るんだから。ずるいよ、いつも勝手にいなくなって、全部いつも一人で背負おうとして……心配する妹の気持ちも考えてよ」
必死の剣幕で逃げろと訴えるユリウスだが、その言葉を受け入れるつもりは毛頭ない。彼は意地を張るリナジェインに対して、眉間に縦じわを刻んで声を上げた。
「頼む。言うことを聞いてくれ。お前には生きて幸せでいてほしいんだ。俺なんかのために命を賭す必要はない。……俺はお前の出生の秘密を知りながら、何もしなかった。お前の兄として生きることを望んで享受していたんだ。優しい兄のフリをして、本当はずっと、お前に邪な気持ちを抱いて独り占めしてきた……最低な男なんだ」
リナジェインはその場にしゃがみこみ、微笑んだ。
「何言ってるの。馬鹿ね。兄さんは私にとって世界一素敵で、世界一大好きな兄さんだよ。今も昔も、これからも。私の幸せは、兄さんなしじゃ考えられない。だから、自責しないで。一緒に外に出て、これからもめいいっぱい甘やかしてもらうんだから……」
もう一度、柱をら持ち上げる腕に力を込める。火はリナジェインのすぐ近くまで広がってきた。逃げ道は塞がれている。でも、諦めるつもりはない。
『――万物の源よ。我らに聖なる加護を』
切々とした想いで詠唱すると、二人の周りを囲う火がほんの少しだけ収まる。しかし、人の病や怪我を癒すための力では、火を打ち消すことはできなかった。けれど、少しの時間稼ぎができたなら充分だ。
リナジェインは少しも諦めずに兄の救出を続けた。
ゴゴ……と大きな音を立てて、近くの壁が崩壊し、倒れかかってくる。
(ああ……やっぱりだめみたい。――助けてあげられなくてごめんね……やっぱり私は、頼りない妹だね)
万事休すかと覚悟したそのとき――。
『――氷の精霊よ。我の力となりて、荒ぶる炎を沈黙させよ』
それは、聞き慣れた低い声だった。詠唱と同時に冷気が広がり、辺りが凍結していく。倒れかかってきていた壁も、傾いたまま凍ってしまった。
「よく持ち堪えてくれた」
いつものように飄々とした様子の彼は、手を火の方にかざして氷を操り、どんどん消火を進めていく。
リナジェインは口をあんぐりと開けた。
(『氷の皇帝』ってそういうこと!?)
シュナに付けられた異名は、氷のごとく冷酷な性格が由来ではなく、能力から来ていたようだ。
つまり、氷の皇帝(※物理)という訳か。
氷を操る優雅な姿に、ただただ圧倒された。あっという間に建物の火は収まり、冷気が充満する冷え冷えとした空間になる。
「随分遅かったじゃないですか。可愛い妹が丸焦げになったら、化けて祟りに行くところでしたよ」
「戯け。これでも急いだ」
シュナが拳をぎゅっと握ると、ユリウスの上に乗っかっていた柱が、氷の欠片になって、木っ端微塵に砕け散る。
起き上がったユリウスに、リナジェインは抱き着いた。
「兄さん……っ」
「ありがとう、リナ。俺にとってもお前は、世界で一番可愛くて、世界で一番大好きな妹だよ」
彼の声は掠れていて、肩が少しだけ震えている。ユリウスが泣くのは、リナジェインが左足を怪我したあの日以来のことだ。
二人はそうして、しばらく抱き合っていた。
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