第2話 突然の求婚は、首筋に剣を添えられて

 

「貴様。私と結婚しろ」

「は、はひぃ……」


 闇がたちこめる宮殿の庭園。広間からオーケストラのワルツが漏れ聞こえ、整えられた茂みの奥からは夜の虫が鳴く声がする。


 そしてなぜかリナジェインは、首筋に剣を添えられて――最凶最悪の求婚をお見舞いされている。兄を探して宮殿に忍び込んだら、とんだ災難に遭ってしまった。


(こんな求婚スタイル、新しすぎでは……?)


 両手を掲げ、承諾(降伏)の意思を示す。


「あ、ああああの、剣を下ろしてはいただけないでしょうか……!」


 上擦った声を絞り出して懇願するが、男は微動だにしない。肌に触れている剣身が異様に冷たく、恐怖が掻き立てられて思わず目を伏せた。


「名乗れ」

「ひっ、は……はい。リナジェインと申します。賤民ですので姓はありません」


 おずおずと男を一瞥すると、視線がかち合った。凍えるような眼差しは、リナジェインのことをまっすぐ見据えている。


 男は見たことがないほど整った顔立ちをしていた。漆黒の髪に藍色の切れ長の瞳、染みひとつない肌と薄い唇、長身で引き締まった体躯。……それは、人間の肉体が体現できる最高峰の美だった。美しい顔に威圧が乗ると一際恐ろしい。――そして、男を包む白の軍服は、赤褐色に染まっている。


(これ、完全に返り血……)


 首に寄せられた剣身も血で汚れており、いかにも人を斬ってきたその帰りといった感じだ。血の気の多そうな男と対峙し、小心者のリナジェインはすっかり萎縮している。

 だらだらと汗を流しながら硬直していると、男は続けた。


「改めて確認する。求婚を受けるということでいいんだな?」


 どうせ、拒否権などないくせに、という抗議は喉元で留める。こくこくと頷き、「はい」と返した。男は安堵したように小さく息を吐き、剣を鞘にようやく収めた。


「そうか。私はシュナ・ヴァーグナーだ。このアンデルス皇国で三十二代目の皇帝をしている」

「!?」


 一瞬、耳を疑った。シュナ・ヴァーグナー。白皙の美貌を持つという若き皇帝は、四年前に元老位の承認を得て帝位に就いた。好戦的な先帝の実子である彼は、その気質を受け継ぎ、傲岸不遜で冷血な男だともっぱらの噂だ。巷では『氷の皇帝』の異名を持つ。


 気に入らない人間は容赦なく斬り捨てるだとか、女子ども小動物に至るまで容赦なく足蹴にするだとか、恐ろしい噂が世間に流布している。


(噂は、本当だったんだ)


 初対面の女に剣を向けるなんて、善良な人間がすることではない。これまでも彼は、暴力をもって他人を思うままにしてきたのだろうか。それにしても、皇帝が卑しい賤民の女に求婚するとは何事だろうか。 全くもって意味が分からない。


「では、詳しい話は応接間で――っておい、お前! しっかりしろ!」


 顔面蒼白で目を虚ろにし、身体をよろめかせたリナジェイン。シュナが咄嗟に身体を支えて呼びかけているが、その声は届かない。


(兄さん……私、どうなっちゃうの……)


 大好きな兄に心の中で問いかける。


 今命拾いしたところで、彼と結婚したら、いつ殺されてもおかしくはないだろう。恐怖が限界を突破し、失神した。



 ◇◇◇



「ん……ここは……?」


 目が覚めると、知らない天井が見えた。皮でできた高級ソファに横たわっており、肘掛に足が載っている。また、額に掛けられた濡れたタオルが、ひんやりしていて気持ちがいい。


「ようやく気づいたか。ここは宮殿内の応接間だ」


 聞き覚えのある声が鼓膜を震わせ、意識が凄まじい速さで覚醒していく。


「ふわぁっ! 陛下、も、申し訳ございません。宮殿の調度品に足を……」


 ソファから降りて床に正座し、流れるように見事な土下座を遂行した。額から滑り落ちたタオルが横に転がる。


「いい。足を上げて寝かせたのは、失神すると血圧が下がって頭に血が巡らなくなるからだ。それより顔を上げろ。一国の皇帝の妃になる女が、簡単に土下座などするな。お前には恥や自尊心がないのか?」

「……」


 恥や自尊心を持っていたら、賤民として生きていくことはできない。賤民は泥水を啜り、物乞いをし、地を這うように暮らしていかなければならないのだから。


「どちらも、私のような身分の者には贅沢な心です」


 リナジェインはシュナの顔を見上げた。


「賤民は、心の自由まで奪われるというのか」

「はい」

「……無体だな」


 すると、これまで鉄面皮だった彼が、僅かに眉尻を下げた。それは憐れみの表情で、冷血といわれる彼の意外な一面が垣間見えた気がした。


「これからは皇族として、品位ある態度を取れ」

「そんなこと急に言われても……」

「言われても?」

「いえ! 全身全霊で、善処致します!」


 とはいえ多分、期待には応えられないだろう。

 簡単に言ってくれるが、つい最近まで野を駆け回っていた田舎者に、貴賓の振る舞いが易々とできるだろうか。――否である。


「では、今から一筆書いてもらう」


 そう言って差し出してきたのは、二枚の書面だった。一枚は公文証書の婚姻宣誓書、もう一方は私的な契約書だった。


「婚姻宣誓書と……こちらは?」

「契約内容を示した私文書だ。言っていなかったが、これは契約結婚。一年したらお前はお役御免だ」


 結婚が期間限定だと知り、内心で安堵する。恐る恐る、契約内容を確認した。


「お前。賤民なのに字が読めるのか」

「……兄が教えてくれました」


 一般的に、賤民の識字率は低い。けれど兄ユーフィスは地頭が良く、独学で多くの学問を習得して妹にも教えてくれた。




『婚前契約書


 第一条)甲および乙は、この結婚が契約結婚である事を認める。


 第二条)契約期限は一年とし、契約終了後甲は乙に、十分な謝礼金を支払う。


 第三条)甲は乙に、妃としての義務を果たすことを求めず、自由な暮らしを保証する。


 第四条)乙は、契約期間に――死傷する可能性があることを理解する』




(ん???)


 気になる条項が目に留まる。四つ目――契約期間に死傷する可能性があることを理解する、とは。


「条項に同意したら乙に署名を行え」

「あの、死傷する可能性とは……」

「そのままの意味だ。陰謀が渦巻く皇室に入る以上、悪いがそのくらいの覚悟はしておけ」


 どうせ、拒否権はない。逃げたら斬るつもりに違いないのだから。


 むしろ、あらかじめ危険があることを教えてくれた温情に感謝すべきなのだろうか。断っても死亡。承諾しても死傷の危険あり。どっちに転んでも地獄だ。署名を躊躇していると、威圧的な眼差しで彼がこちらを見ている。その顔には『何をぼさっとしている』と書いてあるようで……


「ひっ、書きます! ただちに! どうかお許しを」

「……まだ何も言ってないが」


 無言の圧力で急かされ、とうとう契約書にサインをしてしまったのだった――。

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