『リベルタス』
「なんだよ」
ついてきていると勝手に思い込んでしまっただけなのだろうか。
向かい合っても彼女から用件を告げられることはなかった。
「何かご用事があるのかなって」
「いや、マジでねぇよ。お前こそなんであたしの前にずっといるんだよ」
「僕は地図の通り歩いてるだけで……」
彼女はがりがりと頭をかいて、カバンから頭を出している地図を指さした。
「つーかさ、それも気になったんだけど、今時紙の地図なんて持ち歩く奴なんていねぇだろ。なんでスマホで調べねぇんだよ」
「スマホは電話とメール位でしか使わないので……」
「変な奴。にしてもお前、よくあたしに声かけてきたよな」
歩き出した彼女が横を通り抜けながら話すので、僕も置いていかれないようについていく。会話の途中でいなくなってしまうのも失礼だ。
「あんたみたいなやつは、あたしみたいなの苦手だろ」
「どういう意味ですか?」
「だから、あんたみたいな真面目そうなやつが、あたしみたいな不良っぽい奴によく話しかけたなって」
確かに僕は髪も染めてなければ、特徴的な格好もしていない。背も高くないし、体を鍛えているわけでもない。見た目に個性がないというのは、もしかしたら真面目そうに見えるのかもしれない。
いや、事実僕は割と真面目なのかもしれないけれど。
「つーかお前中学生? 平日だろ、学校は?」
「あ、学生じゃないです。一応会社に勤めてます」
「噓、マジ? 年上?」
「今年で17です」
「年下じゃん、あたし今年で19歳。その年で働いてるなんてえらいのな」
「えらいですか?」
「えらいっしょ。あたしなんか、まだちょっとバイトしたことあるくらいだし」
話してみるとずいぶんと気さくで、テンポよく会話が進んでいく。
きっと彼女がとても話し上手なのだ。
名前も知らない彼女と、しばらくの会話を続けているうちに、気づけば僕は目的地にたどり着いていた。
「そんじゃ、あたしここだから。お前一緒に来てよかったの?」
「あ、えーっと、一応僕もここが目的地でした」
「へぇ、めっちゃ偶然じゃん。 もしかしてあんたここで働いているのか?」
「ええ、明日から通うことになってて……」
彼女は僕の手をガッと掴んで強く振った。
「ラッキー、知り合いがいるとちょっと気が楽になる、よろしくな。あたし
「皆月余多です」
「どうする? 一緒に中も見てくか?」
「いえ、僕は今日のところは下見なので」
「そっか、んじゃ余多、あたしもこれからここ来ることあるだろうし、またよろしくな」
初対面の時よりもずいぶんと表情の柔らかくなった穂村さんは、僕に向かって大きく手を振って去っていくのだった。
◇◇◇
「でもよ、あたし最初、余多が同僚の先輩だと思たんだけどな」
「すみません、派遣の掃除の人で」
二人で向かっている会社『リベルタス』は、事務所というより、スタジオというのが正しいような作りをしている。
防音のスタジオ内で何が行われているか僕は知らないけれど、楽しそうに騒ぐ声がたまに聞こえてくる。何かの撮影をしているのは確かなのだけれど、テレビも見ない僕には詳細はわからない。
穂村さんも迫力のある美人で背の高い人だし、もしかしたら俳優さんなのかもしれない。
「別になんだっていいんだけどよ、余多が同僚のほうが楽しそうだ」
「僕とおしゃべりして楽しいなんて、変わってますよね」
「そうか? お前人の嫌がること言わないし、偏見とかもないだろ。結構貴重だと思うぜ、そういうの」
褒められていないせいで、なんだかひどく照れくさくて僕がそっぽを向くと、穂村さんは面白がって顔を覗き込んでくる。
子供みたいな人だけど、友達のいない僕にとっても、彼女と話すこの時間はとても楽しいものだった。
楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまうもので、おしゃべりをして歩いているうちに『リベルタス』に到着してしまった。
到着してからは、帰りの時間までほとんどおしゃべりはしない。
僕はずっと掃除をしているし、穂村さんはその邪魔をしない。
たまに視線を感じて目が合うと、小さく手を振ってくれるくらいだ。
そんなときは僕も小さく頭だけ下げるようにしてる。
それだけで、仕事がいつもよりも少し楽しくなるのが不思議だ。
広い敷地を持つ会社を一人できれいにしていくので、作業は丸一日かかる。
使っているスタジオは後回しにしないといけないので、いつも同じ手順で事が進まないのも、この現場の難しいところだ。
大方の仕事を終えて、終業時間がが近づいてきたのだが、まだ今日は掃除していないスタジオがある。
事務所にいる方に確認をしてみたところ、あと少し待てば撮影が終わるらしい。
手持無沙汰になってしまった僕は、時間が来るのを待ちながら、もう一度廊下のモップ掛けをすることにした。
しゃがんで角度を変え廊下の光沢を確認していると、スタジオ入り口の上につけられた使用中のランプが消える。
扉があくと、最初は穂村さん、そして同じ年ごろの男女が一人ずつ。それからスタッフの人たちが出てきて、最後に比較的若い女性が電話で話しながら扉をくぐった。
彼女の名前は藤崎さんという。
役職はマネージャーと聞いているので、若いながらおそらく偉い人なのだと思う。
よくスタジオの撮影に同席していて、掃除の指示などをくれる人だ。
「なんですか? リハーサルしたい? はぁ、まぁ、スタッフが必要ないのであれば構いませんが。はい、はい、じゃあ開けて待っていますから、早く来てくださいね。それでは」
スマホからはまだ何か声が漏れていたが、藤崎さんはさっと操作をして通話を切り上げてしまった。そしてそれをポケット仕舞い込んで、僕の方を向く。
「あ、すぐ次に使う予定があるので、今日のところはこちらのスタジオは結構です。もうお時間ですよね、ご連絡が遅れてすみませんでした」
「急なご用事……ですよね。大丈夫です、もしよければ残って終わった後に掃除に入ってもかまいませんが……」
「何時になるかわかりませんので、そこまでお願いするわけにはいきません」
「そうですか。ではまた次に来た時にしっかりやらせていただきますので」
それなら今日の仕事はもう終わりだ。
忙しそうな藤崎さんは、いつも話が終わるとすぐいなくなってしまうのだけれど、今日はなぜか頭を下げてあげても僕の前に立っていた。
何か考え込んでいるようで、僕の胸のあたりをじっと見て、スマホを取り出す。
「何かご用事ありますか」
「ああ、いえ、その、あなたもこちらに来てもう半年ほどになりますよね。お若いのでちょっと気になっていたんです。お名前は、えーっと皆月……下のお名前は何と読むのでしたっけ」
「はい、皆月余多です。苗字を覚えてくださっていたんですね」
「やっぱり、あまたさん、って読むんですよね、お名前」
藤崎さんは驚いたような顔でじっと僕の顔を見つめながら、名前を復唱する。
おそらく知り合いではないはずだし、人に名前を知られるほど有名になったことはないはずだ。
「あの、何かまずいことが……?」
「あっ、いえ、全然そんなことはありません。いつも仕事が丁寧で、挨拶もしっかりしてくださるので評判がいいんですよ。これからもよろしくお願いしますね、えーっと、はい、それでは!」
いつもの通り一歩の大きな早足で、藤崎さんは慌てて去っていく。
何もないような態度ではなかったけれど、心当たりがまるでない。
会社の方に何かクレームが入らないといいのだけれど。
ほんの少し心配を抱えながら、僕は仕事道具を片付けて『リベルタス』を後にするのだった。
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