今日のお仕事-白波さん宅
楽しかったなぁという気持ちは一晩休んでもまだ続いていたけれど、だからと言ってじゃあ僕も同じことをしようとはならない。
だってパソコンを持っていないし、最後まで彼女が何をしていたのかわからなかったのだから。さすがにパソコンの中に人がいると思っているほど機械音痴ではないけれど。
どんよりとした曇り空のもと今日も出勤だ。
8時半頃に事務所につくと、昨日の仕事の日報を書いてから、今日の訪問予定のお家へ向かう。近所なら歩いて、遠方なら自転車で。
タイムカードなんてものは特にない。
残業になることなんて極稀だし、なったらなったで申請すればいい。
残業はお客様の負担になるので、不正に申請していればお客様からクレームが入ってすぐばれるので、そんな馬鹿なことは誰もしない。
僕は途中スーパーで買い物をしてから、目的地である背の高いマンションへ向かう。高級感漂うエントランスで部屋番号をプッシュし、到着の連絡を入れた。カメラに映るように顔の位置を調整する。
「……はい」
「おはようございます白波(しらなみ)さん。家事代行の皆月です」
「ああ、今日もよろしく」
僕よりもほんの少し高い落ち着いた声。
身長もあまり変わらないのだけれど、この家の主は昨日に引き続き僕にとって数少ない女性クライアントだ。僕が研修で先輩女性と一緒に訪問することを受け入れてくれた優しい人で、そのまま僕を指名してくれた。
この仕事についてから一番長く訪問させてもらっているお宅になる。
エレベーターに乗って廊下に出ると、ドアに寄りかかって僕を待っていてくれる白波さんの姿があった。
白波さんはいつもピシッとした服を着ていて、男である僕よりよほどかっこいいという言葉が似合う人だ。正直なところちょっとうらやましい。
今の立ち姿も、それだけでテレビに出てくるワンシーンのようにも見えてしまう。
何をしている人なのだろうと思うこともあるが、お客様のプライベートを詮索することはご法度だ。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
業者というより、客を迎え入れるように中へ入れてくれるので毎度恐縮してしまう。僕は体を小さくして頭を下げて、自分のスリッパを取り出し、履き替えて家へ上がった。
最近では部屋も散らかっているわけではないのだけれど、なぜか週に一度はお邪魔することになっている。軽くほこりをはたき、床に掃除機をかけ、たまに気になる部分を水拭きするくらいで十分だ。
以前洗濯機が回っていることがあったので、たたんだ方がいいのだろうかと気にしていたのだが、察した白波さんに「さすがに男の子にお願いするのはね?」と言われ僕の方が赤面してしまったことがある。
女性宅でデリカシーのないことをしてしまったと、今でも思い出すだけで恥ずかしくなる。
ふと部屋の隅にまとめてある段ボールが目に入り、書いてある文字を読んでしまう。
MICROPHONE。
昨日の輝夜の部屋にも似たような段ボールがあったっけ。楽しかったな、昨日。
いつも通りの作業だから、考え事をしていても手は動く。
……だめだだめだ、それで仕事が中途半端になったら白波さんに申し訳ない。
僕は首を振って、いつも以上に気合を入れて仕事に取り組むことにした。
白波さんは僕が作業している間、ずっとその様子を見ている。
監視されているというより、見守られている感じがするのだが、もし暇なら自分でやった方がいいのではないかという疑問がたまに湧いてくる。お仕事を依頼してもらっている僕が考えるようなことではないのだろうけど。
王子様のような見た目をしているし、もしかしたらお掃除とかは得意ではないのかもしれない。
掃除が終わると食事の準備に取り掛かる。
昼食の準備に加えて、午後をめいっぱい使って、数日分のご飯を作ってたっぱに詰めるところまでが僕の仕事だ。白波さんはご飯を炊いて、何日かに分けてそれを食べているらしい。
なくなってしまうと、ゼリーやらカロリーのあるクッキーやらばかり食べているそうなので、この仕事は結構重要だ。白波さんの食事バランスは、僕の料理によって成り立っているといっても過言ではない。
案外これこそが彼女が家事代行サービスを依頼している理由なのかもしれない。
とりあえず昼食にさっとオムライスを二人分作りテーブルへ運ぶ。
白波さんの分だけ作って僕は外で食事をすればいいのだが、ご厚意で一緒にお食事をいただいている。
仕事をして数か月が過ぎたころこんな会話があったのだ。
『それじゃあ、休憩が終わったらまた来ますから』
『いつも思ってたけど、一緒に食べないの?』
『お弁当を持ってきていますから』
『ここで食べてもいいよ、いちいち外に行くの面倒でしょ?』
『いえ、お仕事中ですし、ご迷惑ですから』
『……もしかして客と食事なんて、休憩にならないか。無理言ってごめん』
『え、いや、そんなんではなくて』
『いいよ、だって私と君は、所詮客と業者の関係だもの。毎日一人で食事をするのは寂しいけど、そんなことまで強要できないものね』
『で、ですから、白波さんにお誘いいただいたことは嬉しいんです』
『いいよ、無理しなくて。警戒するのもわかる』
『あ、あの、ご迷惑でなければ、ご一緒させていただきます……』
押し切られたというか、肩を落とす白波さんを見ていられなくなった僕は、そうして食事を一緒に取ることにした。
『それじゃあこれからはお弁当を作ってこなくていいよ。ここで同じものを食べよう。いや、たまには作ってきてくれてもいいけど、その時は二人分欲しいな。もちろん材料費は私が持つから、それでいいよね?』
コロッと態度を一変させて、怒涛のように連ねられた言葉に、僕はただ頷くことしかできなかった。
ちょっと怖かったけれど、まぁでも、基本的にはいい人なので、僕は今日も白波さんと一緒に昼食をとっている。
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