納得

 小さな男の子だったから、泣き出してしまうんじゃないかって思ってた。

 でも、その子は泣いたり逃げ出したりしないで、姿勢正しくそこに座っていた。


「……何してるの?」


 自分が悪いと思ってたから、沈黙が息苦しくて尋ねた。


「一緒にいるほうが元気出るかと思って」

「…………そう、勝手にしたら」

「うん」

「……私、ピアノ上手だった?」

「僕、あんまりわからないけど、楽しそうでいいなって」

「そっか、楽しそうだったんだ」


 その子は本当にただじっと横に座っていたし、そのあと会話をしたわけでもなかった。でも、私のことをお母さんが迎えに来るまで、ずっとそこに座ってくれていた。

 こんな小さな子に楽しそうって言われるくらいだから、きっと私はちゃんとピアノが好きなんじゃないかなって思えた。


 それから私は、ちょっとだけ人の前に出るのか苦手になった。

 発表会に出るにも勇気が必要で、人前に出ると気持ち悪くなってしまうこともあった。両親も先生も、そんな私のことをわかってくれたみたいで、そんな私のことをサポートしてくれていた。

 そんな生活をしていく中で、私はいつの間にかあの男の子のことを忘れていた。


 それから何年かして、高校生になっても私はまだピアノを続けていた。

 昔ほど注目を浴びなくなったし、人から褒められることも減ったけれど、ピアノを弾くことは楽しかった。

 音大に進んで、なんとなく音楽の仕事に就ければいいなと思って受験をした。

 ピアノの先生になって教えられたらいいな、なんて思っていた。


 でもその受験先では、私みたいになんとなくピアノを弾いている人なんていなくて、皆が怖い顔をして受験に臨んでいた。

 実技の試験での演奏の質はとても高かった。私も特別下手ではなかったと思うけれど、なんとなく場の雰囲気にのまれてしまっていた気がする。

 すごくうまくてとても私なんか比べ物にならないなって思うような子でも、出てくるとその時点で泣き出してしまったりしていた。


 ほんのわずかなミス。

 素人じゃわからないくらいのほんの少しのずれが、きっとその子は許せなかったんだと思う。


 両親や先生の、とりあえず受けてみてもいいんじゃないかという雰囲気は、きっとこのことを知っていたからなんだと、そこで初めて気が付いた。

 私はこの世界で生きてくような人間じゃないんだって。

 


 帰りの電車に揺られていた。受験は上手くいっていない確信があった。

 私は女にしては背が高いので、電車で立っているとよく注目を浴びてしまう。

 いつものことなのに、やけに人の視線が気になって目を伏せた。


 気持ち悪さをこらえながら、ぐるぐる考え事をしていて、ふと嫌なことに気づいてしまった。


 そっか、両親や先生が優しくなったのは、私に期待をしなくなったからだったんだって。


 嫌な汗がジワリと出てきたところで、正面に座っていた子が立ち上がった。


「座ってください」


 誰とも関わりたくない気分だったので、断ろうとして顔を上げたときには、そこ子はもう腰を浮かせている。

 黒髪の私より背の小さな子だった。小学生かと思ったけど、ランドセルを持っていないからきっと中学生。声ではわからなかったけど、スカートをはいてないから多分男の子。


 断る言葉を出すのも億劫で、互いに見つめ合っているうちに電車が止まった。

 扉が開いて逃げ出すように電車から降りた私は、近くにあったベンチに腰を下ろした。

 ひどく嫌な気分で、いつかもこんなことがあったなと思いだしていると、目の前にスポーツ飲料が差し出された。


「嫌いでなければ」


 しつこい子だと思った。

 私に何か用でもあるのかと思った。

 容姿が優れている自覚はあったし、そういうのは面倒だと思ってしまっていた。


 私が受け取らずにそれを見ていると、その子はしばらくしてそれをベンチにおいた。


「いらなければ捨ててください」


 その子はわざわざ少し離れた場所へ歩いて行って、次の電車が来るのを待っているようだった。

 私は隣に置かれた飲み物を手に取って、その子の後姿を眺める。何かを思い出しそうな気がして、ぼんやりと。

 電車がホームへ入ってくる。

 その子が、一度だけ振り返って、多分私が手にペットボトルを持っているの見て、少しだけ微笑んで頭を下げた。


 そこで私はようやく、その子があの時私の隣に座った小さな男の子にそっくりであることに気が付いた。


 お礼くらい言わなきゃ。

 現金な私が立ち上がったときには、その子が乗った電車はもう発車していた。


 私は電車が見えなくなるまで見送って、ベンチへ腰を下ろした。


 知らない子からもらったペットボトルを、迷うことなく開けて一口喉に流し込む。

 喉が潤い、体に水分が染みわたって、私は今日一日何も飲んでいなかったことを思い出した。


 あの子はもしかしたら、私の辛いときにだけ助けてくれる守護霊とかなのだろうか。

 そうじゃなければ、もしかして私の運命の相手なんじゃないか。

 そんなバカげた自分の考えに私は一人笑った。

 

 もう気分は悪くなくなっていた。


 両親は私に期待しなくなっていても、私のことを嫌いになったわけではない。

 一流の人ほどの気持ちは私にないかもしれないけど、私はピアノが嫌いじゃない。

 趣味でピアノを弾くことが悪いわけじゃない。

 その道で生きていけなくても、私が死んでしまうわけではない。


 もう一度あの子に会えたらちゃんとお礼を言おう。

 小さなころのことは別の人かもしれないけど、その子に対する気持ちも込めて、ちゃんとお礼を言おう。


 そう思っていた相手、余多君と次にであったのが、彼が仕事で私の家やってきたときだったわけだ。

 会わなかった間、何度も何度も余多君のことを考えていたせいで、私はひどく驚いてしまった。本当に運命の相手なんじゃないかなんて思って動揺してしまっていた。いや、今もちょっと思ってるけど。

 それだから昔のお礼を言うこともできず、小さなころの子が余多君だったかを確認もできずに今日にいたっている。


 冷静になって考えればわかることだけど、私にとって特別だった出来事は、きっと余多君にとってはそうでなかったんだと思う。

 だから、はじめて会ったとき熱が出ていなかったことも覚えていないし、それ以前のことだって覚えているわけがない。そりゃあ私はちょっと容姿が優れているし、覚えていてくれてもいいんじゃないか、くらいに思っていたけど、きっと余多君はいつだって人にやさしく生きているんだ。

 親切がいつものことだから、私のだってその中の一つでしかなかったんだ。


 だから、期待して、がっかりするのはちょっと違うんだと思う。


「ってことは、あれって白波さんじゃなかったのかな」


 野菜を細かく刻みながら、余多君が小さな声でつぶやいたのを、私は聞き逃さなかった。


「……余多君、今、なんて?」

「いえ、昔白波さんによく似た人に会ったことがあって」

「そ、それはいつのことだい……?」

「多分、輝夜のピアノ発表会に行ったときですから……、もう10年くらい前だと思いますけど……」

「……その時、どんな話をした?」

「ええっと、詳しく覚えてないですけど……。寂しそうにしてたので、隣に座ってた覚えはあります」

「それ、それ私だよ!」

「あ、やっぱりそうだったんですね」

「覚えてたならなんで言ってくれないのかな!」

「あ、いえ、そちらからお話しされなかったので、触れないほうが良かったのかと思ってたんですけど……」

「なんだ、そっか、覚えてたんだ……。……ちょっと待って、じゃあもしかして4年くらい前のことも覚えてたりする?」


 半分以上の期待をもって尋ねると、余多君は一瞬だけ上を向いてこくりと頷いた。


「あのー、電車で調子悪そうにしていた時ですよね。構われるの嫌だったみたいなので、これも触れないほうがいいのかと思っていました。余計なことしちゃったかもしれないって反省してたんです」

「……いや、あれすごく助かったんだよ、どっちもさ」

「そうだったんですか、それなら良かったです。ちょっと気になっていたので」


 あっさりと答えた余多君は、穏やかな顔で微笑んで見せた。


 なんだ、勘違いじゃなかったじゃないか。


「余多君、私はね、君のことが大好きかもしれない」


 余多君は考えるように瞬きをして答えた。


「ええ、僕も白波さんのこと好きですよ」


 これは全く意識していない。

 余多君は意識してないけど、私はひどく幸せな気分だ。


 そっかー、覚えていたんだ。

 なんだぁ、やっぱり、やっぱり、余多君は私の運命の相手だったんじゃないか。

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