第26話 asset-2

クロップドパンツにロング丈のカットソーは外回りをしていた頃からすればいささかカジュアルすぎな気もするが、西園寺メディカルセンターの研究所ラボに詰めている研究者はTシャツにジャージの人間もいるらしい。


槙もいつもカジュアルな格好をしているし、来客と会う時にジャケットを羽織るくらいだと話していた。


逆に椎名のようにしょっちゅう会議に呼ばれる人間はスーツを着用しているようだ。


ここの社員になって給与も待遇もさらに良くなってますのでご心配なく、と言えればどんなに良いか。


木下は明らかに歩実の退職に責任を感じている様子なので、現在無職で喫茶店でアルバイトで生計を立てていますとはどうしても言いにくい。


急な退職と心配ご無用な上手い言い訳を必死に探っていた歩実の脳裏に、ふと槙の言葉が思い浮かんだ。


歩実にそのつもりさえあれば、家賃を払える払えないの心配はすぐに必要でなくなる。


「あの・・・実は・・・結婚が決まりまして・・・・・・」


気づいたら、そう口にしていた。


「あ、そうだったんですか!なるほど、それで!・・・・・・え、じゃあもしかして・・・」


ホッとしたように以前のような気さくな笑顔を浮かべた木下が、歩実の身体を探るように見つめて来る。


しまった。


緩めのトップスはおめでたのイメージを引き寄せてしまうのか。


「あ、いえ。その、結婚準備でばたついて体調を崩してしまいまして・・・・・・彼が心配してそのまま退職を・・・」


決して妊娠ではありませんよと言外に伝えると、そうでしたか!と木下がうんうん頷く。


「安心しました。以前よりどことなく雰囲気も柔らかくなられましたし、幸せそうですね!何よりです」


「あ・・・はい・・・ありがとうございます」


こうも臆面もなく褒められると、逆に良心がじくじく痛んで来るが背に腹は代えられない。


この場だけどうにか乗り切らせてくれと必死に祈る。


「菊池さんを知っている社員は何人もいるんで、みんなにも話して安心させてやりますね」


「あー・・・はい」


それは出来れば遠慮して頂きたいが、まさか今更嘘ですとは言えない。


どうにか笑顔を貼りつけて答えた歩実の背中に、まさかのタイミングで呼びかけが聞こえて来た。


「歩実さん!」


振り返れば施設から駆け出して来た槙がこちらに向かってやって来るところだった。


困り顔の歩実を見て、その向こうで立ち尽くす木下に気づいた槙が申し訳なさそうな表情になった。


「あ、ごめん話し中か」


どうして今なのかと頭を抱えそうになる歩実の目の前で、木下が歩実と槙を交互に見て、え?と

首を傾げている。


「もしかして・・・こちらの方が結婚相手の・・・?」


適当に口から出まかせを吐いたことをこれほど後悔したことは無い。


真っ赤になって狼狽える歩実と興味津々の木下の表情を瞬時に見て取った槙が、穏やかな笑顔で歩実の肩を抱き寄せる。


こういうところは物凄く察しの良い男である。


案の定、そつのない余所行きの笑顔を貼りつけて口を開いた。


「初めまして、いつも妻がお世話になっております」


この一瞬で全てを悟るなんてさすがの一言に尽きる。


「ああ、やっぱり!いま、菊池さんから結婚の話を聞いたばかりで・・・いやあそんなおめでたい理由で退職されただなんて!お祝いさせて貰いたかったですよ!!」


「いえ、そんなお気遣いなく。あの、社内の皆様にもどうぞよろしくお伝えください」


もうこれ以上は勘弁してくれと必死になって会話を畳めば、初々しく照れているのだと勘違いした木下が、こんな菊池さん初めて見ましたよーとニヤニヤ笑いながら、さっきとは打って変わって笑顔でお元気で、と笑ってエントランスへと入って行った。


どうにか嵐は去ったと、ふうっと息を吐いた瞬間。


「俺に返事聞かせる前に、結婚報告なんて・・・やるなぁ」


口笛でも吹きそうな勢いで槙が嘯く。


「いや、これには海より深い事情があってね!」


「え、いまのデマ?でっちあげ?そうなの?」


からかい半分期待半分の眼差しを向けられて、うぐっと言葉に詰まる。


「わ、私は・・・・・・・・・まずは、同僚になりたいんだけど」


これは紛れもなく本音で嘘ではない。


西園寺メディカルセンターの社員になって、槙とこの敷地内で会える関係になりたい。


「同僚・・・へー・・・・・・それだけ?」


逃がさないよと肩を抱く腕に力をこめて槙が詰め寄って来た。


恐らく忙しい仕事の合間の抜けて飛び出して来てくれたのだろう。


これ以上彼を引き留めておくわけにはいかない。


「もし、合格したら、だけど・・・・・・・・・社内恋愛・・・・・・する気ある?」


かくいう歩実も社内恋愛は未経験なので、どんなものかは分からない。


けれど、それが現実になればいいな、と期待を込める。


する気あるよね?と必死に目力を込めれば。


「社内大恋愛する気があるよ」


嬉しそうに槙が笑み崩れた。

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