第35話  LTSC-1

「じゃあ、俺は帰るから」


「お疲れ様です」


立ち上がった椎名が、フロアを見回して声を掛ける。


今日の夜勤対応者は槙で、申請対応で残っている電話中のエンジニアが一人いるだけで後はみな退勤済み。


静かなフロアを抜けながら、椎名が槙の席の隣で立ち止まった。


「菊池さん、残業なの?」


「みたいですね」


超ホワイト企業のメディカルセンターなので、基本17時の定時を過ぎるとセクションはガランとする。


動いているのはセキュリティーチームと、研究所ラボと、年中無休で忙しいイノベーションチームと、設備関係のことで残っている施設管理くらいのものだ。


今日はサーバールームの電気設備の定期点検日で、立ち合い対応は課長の黄月が行うと聞いているが、赤松が有休を取っているのでその分仕事が立て込んでいるらしい。


歩実が業務に慣れるまでは休暇を取得せずに付き合ってくれた赤松なので、心配を掛けることなく休暇を謳歌して貰いたいと歩実はいつになく意気込んでいた。


もともと頼られることのほうが多かった彼女なので、一人で仕事を任されたことでやる気も大幅アップしたのだろう。


傍から見ているとガス欠が心配になるくらい全力投球で迷いのない歩実なので、バランサーとしての役割をうまくこなしている赤松の下についてくれてホッとしている。


食えない彼女は100%信用できるとも言い切れないのだが、仕事に関しては文句なしに頼りになる相手なので。


「それは良かったね。なにかあったらよろしくね」 


「定期点検ですから、何もありませんよ」


施設に雷でも落ちない限り安全が守られる予定の西園寺メディカルセンターである。


槙の切り返しに、そうだねと鷹揚に答えた椎名がゲートの向こうへと消えていく。


ロッカーから荷物を取り出した彼が真っ先にする事は、みちるへの帰宅連絡だ。


正直ここまで彼が恋愛に溺れるタイプだとは思わなかった。


誰とでもそつなく付き合う椎名の本質は、実は重たくてちょっと粘着質なのかもしれない、みちるに関しては。


みちると歩実の仲を認めているのも、歩実が自分が通いなれた喫茶店の店員で素性が確かだったことと、槙の恋人だから。


結局のところ、自分のテリトリーからみちるを外に出すつもりなんて最初からないのだ。


交友関係が決して広くないみちるだから、円満にこの先も夫婦関係を続けていけるのだろうが、椎名の妻が歩実だったならば、絶対にいつかその関係は破綻するだろう。


歩実は一人でも十分生きていけるくらい社会的にも精神的にも自立している。


誰かに依存することなんてまずないし、むしろ束縛を嫌うタイプだ。


どれだけ槙とシフトがすれ違っても文句の一つどころか、寂しいの一言も彼女の口からは出てこない。


社内でばったり顔を合わせたら、あ、今日出社してたんだ、くらいのものである。


今度はいつ会えるの?休みはいつ?と再三訊かれて面倒だなと思っていた歴代の彼女たちとは何もかもが違う。


最初は同じ会社で勤めるのだから、と歩実の入社早々にスケジュールの共有を行ってシフトが分かるようにして、リモートワークを減らして出勤するようにした。


それもこれも、歩実と社内で会うためだ。


が、歩実は共有した槙のスケジュールをほとんど把握しておらず、さして興味も示さなかった。


予定は変わることがあるし、会えるときに会おう、という彼女のスタンスは楽でいい。


が、日が経つにつれて物足りなさを覚えるようになった。


彼女からの愛情が目減りしただなんて思わないし、仕事が充実しているようで生き生き働く歩実を間近で見ることが出来るこの環境も気に入っている。


が、暇さえあればメールのやり取りをして、ランチ時には必ずみちるの顔を見に【椿亭】に通ってほくほく顔で戻ってくる上司を間近で見ていると、自分の恋愛がひどく乾いたものに思えてくるのだ。


恋愛が生活の中心になるなんて、愚かだと分かっているけれど。


こんな一方的な気持ちを歩実にぶつけたところで何にもならないし、呆れられるか笑われるかのどちらかだ。


ああ、追いかける恋愛というのは結構しんどいなと、今更ながら気づいてしまった。


だからといって、手放したりは出来ないけれど。


槙のやるせなさを読んだかのようにメッセージが届いたのは数分後の事だった。


”ごめん、いま忙しい!?”


モニターの右端に表示されたチャットに、秒でどうした?と返事を送る。


”サーバールームの鍵の開け方教えて欲しいんだけど”


電気設備の点検は課長の黄月が立ち会う予定だったが何かあったのかもしれない。


仕事でプライベートでも、歩実に頼られることは初めてで、自然と頬が緩んだ。












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