第34話 migration-2

「ああ、わかります。ちょっとここの雰囲気独特ですよね」


「私語厳禁って空気がビシバシ伝わって来るんですけど・・・」


もうちょっと開けたフロアだったならば、気安くお疲れーと声を掛けられるのだが、全員がモニターににらめっこ状態なので、どうしても声を掛け辛いのだ。


「そんなことないですよ。いつも菊池さんがうちのフロアに来るたび、槙の奴、目で追ってますからね。声をかけてくれるのを待ってるんですよ」


「え、でも・・・あの、用事がなくて」


歩実がこのセクションで用事があるのは常に入室申請の許可を下ろす権限を持っているフロア責任者の椎名のみだ。


だから、仕事の邪魔をしないように用事が終わったら即座に帰っていたのだが。


「隣でお疲れって声をかけるだけでいいですから、ね?菊池さんが戻った後の槙の空気が重たいんですよ・・・上司としても、ちょっと見過ごせなくて困ってます」


お願いしますよ、と言われて仕方なく槙の席へと近づく。


インカムは首にぶら下げたままなので、誰かと電話をしているわけではないから、声をかけても大丈夫だ。


とは思うのだが、いつものようにお疲れ、の一言が出てこない。


仕方なく、彼の座るハイバックチェアの隣にしゃがみ込む。


と、キーボードを叩いていた理汰が手を止めてこちらを見下ろして来た。


「・・・・・・椎名さんになんか言われた?」


さっきの椎名と歩実のやり取りを見ていたようだ。


うんと言ったら言ったで面倒なことになりそうなので、目の前のモニターを指さした。


歩実には理解不能な文字の羅列が何行も並んでいる。


「・・・・・・モニター二つって混乱しないの?」


「慣れたら平気。サーバールームの点検の日、立ち合い誰?」


「黄月さんが昼から出社して終わるまで残るって言ってる」


「そっか・・・・・・」


頷いた槙が、歩実の横にある手を伸ばして髪に触れてきた。


肩までなで下ろして、今度は手のひらを頭の上に置かれる。


いい子いい子とまるで二人きりのときのように撫でられて、慌ててその手を押さえた。


何で今の一瞬でスイッチが入ってしまうのかこの男は。


「ちょっと・・・ここ職場」


「みんな目の前のモニターしか見てねぇよ」


静かに切り返した槙が、掴まれた手を解いて逆に握りこんでくる。


あんまり動いて目立つわけにもいかず、大人しくそのままにしていると、気を良くした槙がさらに腕を引いて自分のデスクの上に歩実の手のひらを乗せると、からかうようにマニキュアの光る爪の先をなぞり始めた。


優しく辿って爪の先を擽る仕草は、ひそやかな夜を思い出させて気恥ずかしくなる。


歩実がここ最近マニキュアを怠らないのは、こうやって槙がしょっちゅう触ってくるせいだ。


「・・・・・・槙は、私のこと見てたよね?」


「それはほら、彼女だし?すげぇ素っ気ないけど」


「素っ気なくはないでしょうよ」


これでも精いっぱい愛想を振りまいているつもりなのだ。


初心者彼女として。


「・・・俺が歩実の部署に行く理由ってまずないんだけどな」


「うん・・・そりゃあそうでしょうね」


基本依頼を受けて入退室の管理を行ったりセキュリティーのチェックを行ったり、PCの管理を行うのが彼らの役目で、施設管理と連携を取る機会はめったにない。


だって全く種類の違う仕事をしているのだから当然だ。


「・・・・・・・・・社内恋愛するんじゃなかったっけ?」


「してるでしょ、いま」


「俺、歩実の顔見るの3日ぶりなんだけど、おかしくないか?」


「夜勤シフト入ってたらそういうこともあるでしょ?最初にそう言って説明したの槙のほうじゃないの」


入社が決まってこれからお付き合いをしましょうとなった時、槙の仕事は緊急対応もあるので仕事帰りのデートは難しい日もあると事前に説明を受けて、当然納得もしている。


「・・・・・・前に見た時は、爪、違う色だったな」


「このあいだ、赤松さんと一緒にネイルサロン行ったの」


「彼氏がいなくてもアフター5は充実してますって?」


「それなりにね。寂しがって泣くタイプに見える?私」


独り時間を全力で満喫するスペックはフル装備の歩実なので、槙と付き合うまでは何年もおひとり様で楽しくやって来たのだ。


勿論、槙と付き合い始めて楽しいことは沢山あるけれど、だからといって独り時間が虚しくなるということは決してない。


社会人を何年もやっていれば、そうやって時間の過ごし方を覚えていくものだ。


「いや、見えん」


「でしょ?だから、浮気の心配しなくていいから、せっせと仕事してちょうだい」


さすがにこれ以上の長居は出来ないなと立ち上がって、槙の手元から自分の手を引っこ抜く。


と、追いかけてきた手のひらが指先を捕まえて引き寄せてきた。


もう、と睨みつけると同時に、かぷりと爪の先を甘噛みされる。


「たまには俺を恋しがれよ」


「・・・・・・っ」


聞こえて来た爆弾発言に息を飲んで、今度こそ彼の手を振りほどいて、ゲートの外に逃げ出す。


フロアに戻っても、跳ねた心臓はちっとも落ち着いてくれなかった。

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