第6話 compile-2
「・・・・・・・・・」
24歳の彼女がきらきらとした現実を生きていて眩しいくらいなのに対して、もうすぐ32歳の自分はあまりにも薄っぺらで情けない。
これまでそれなりに積み上げて来たはずの経験が、実は何も残っていないのだと気づいたらもう歩けなくなるのに。
どうしてこんな時ばっかり自分を俯瞰してしまうのか。
紙ナプキンをケースに入れる手が震える。
歪んでいく視界の理由は考えなくても分かる。
こんなところで泣いている場合じゃない。
こんなところで立ち止まっている場合じゃない。
だけど、どこにも行けない。
アイスコーヒーのグラスを取ろうとした手が空を切った。
ガクンと膝から力が抜けて、慌ててテーブルに手を突く。
物音に気づいたみちるがすぐにこちらを振り返った。
「どうしました?歩実さん大丈夫・・・」
心配そうな彼女の顔を直視出来ずに顔を伏せて首を振る。
いま一番顔を見られたくないのはみちるだ。
歩実がどこかに置き去りにして来た素敵なものを全て持って穏やかに生きている彼女の前でこれ以上醜態を見せたくは無かった。
「ご、ごめん・・・ちょっと貧血・・・・・・・・・外の空気吸ってきます」
早口で捲し立てて、トレーをテーブルに置いて店の入り口へと向かう。
「え!?ちょ・・・」
歩実がドアノブに手をかけるより先に、外からドアが引き開けられた。
こんな最低の気分の時でもカウベルは軽やかに鳴り響く。
俯いたままいらっしゃいませの言葉も紡げない歩実の目の前で驚いたように立ち止まったのは。
「・・・・・・どしたの?」
「・・・・・・なんもない」
どうしてこんなときばかり会いたくない人が次々目の前に現れるのか。
目を丸くした槙が、唇を引き結んで俯く歩実を驚いた表情で見下ろして来る。
彼がドアノブを握っている隙に、逃げるように駆け出した。
外の空気を吸うのならバックヤードの奥の勝手口に向かうのが普通だが、そんなことを考える余裕なんて無かった。
「え、ちょ・・・」
「歩実さん、ほんとに大丈夫!?」
唖然とした槙の声と、歩実を気遣うみちるの声が背後からするものの、頷いたり立ち止まったりできる訳もない。
エプロンを付けたままで行ける場所なんて無いのに、とにかく一人になりたくて勢いそのまま住宅街の細道を走った。
少し行った先にある公園で休もうか、それとも涙が渇くまで人の少ない通りを歩き続けるべきか。
結局ここまで来ても次の行動すら選べない自分が嫌になる。
どうしようと鼻を啜った矢先、慌ただしい足音が近づいて来た。
「何やってんの!?」
追いかけられる想定はしていなかった。
捕まえられた左手を振りほどく暇もなく彼が前に回り込んで来る。
「・・・・・・・・・コーヒー飲みに来たんじゃないの?」
「コーヒーはどうでもいいよ。何やってんの・・・みちるちゃんに心配かけて」
呆れるような声で槙が正論を言った。
「・・・・・・分かってる」
「分かってるなら」
「分かってるから!・・・・・・ちょっと黙ってて・・・ちゃんと自分でするから」
「・・・・・・ちゃんと自分で出来ないから、店飛び出したんじゃないの?」
「なんであんたはそうやって痛いところばっかり突くのよ!見て見ぬふりしてよ!得意でしょ!うまく躱してよいつもみたいに!」
歩実から見れば自分の数倍器用な槙が、わざわざ面倒事に首を突っ込んで来るなんて面白がっているとしか思えない。
鬼の霍乱を楽しんでいるのだとしても悪い冗談だと笑える余裕が今は無い。
歩実がゼミメンバーの中でもとくに槙と仲が良いのは、彼が他人との距離を間違えないからだ。
踏み込む相手をちゃんと選んで付き合っている彼は、歩実の痛いところには絶対に触れて来ないからだ。
それなのに。
「・・・・・・・・・どうでも良くないから躱せません」
「先輩の私が躱せっつってんのよ!」
いつだって笑って過ごして来た気の置けない仲間を怒鳴りつけるほど余裕を失くした自分なんて知りたくなかった。
「歩実さんさぁ・・・・・・そうやっていーっつも私がやります、一人でやりますってかっこつけてるから、逃げ方わかんなくなるんだよ?」
「・・・・・・・・・っさい」
「俺達もうとっくに社会人だし、今更先輩も後輩もないでしょ?俺はここであんたが泣いても喚いても困んないけど?」
「泣いてない」
「・・・まだ言うか・・・・・・泣きたくなったから逃げて来たんでしょ」
「・・・・・・・・・いいからほ」
「ほっとけません」
「・・・・・・悪いけど・・・・・・ありがとうとかごめんねとか言う余裕がない・・・・・・だって・・・・・・私こんな惨めになったこと無いのよ・・・・・・」
惨めだと認めてしまった途端、目尻から涙が零れた。
真正面からこちらを見下ろしている槙が、静かに息を吐いた。
「折れることくらい誰でもあるって。逃げりゃいいじゃん。死ぬわけじゃあるまいし・・・かっこ悪くても、俺は気にしませんよ」
「私が気にすんのよ!」
頬を伝う涙を必死に手のひらで拭いながらあたふたと言い返せば。
「これまでそうやって頑張って自分を奮い立たせて来たんだねぇ」
しみじみと言った槙が、静かに付け加えた。
「もう大丈夫」
三十路過ぎてアルバイトで生計を立てている落ちぶれた社会人のどこが大丈夫なものか。
若者が眩しくて自分の現実に打ちひしがれて泣くしかない大人がどこが大丈夫なものか。
込み上げてくる悔しさや後悔ややるせなさは溢れんばかりなのに、口から出て来るのは情けない嗚咽だけ。
それでも槙は穏やかな声で言った。
「大丈夫」
嘘みたいなその言葉が、じんわりと胸に染みた。
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