第7話 instance-1

「あの、これ水族館のお土産です」


初デートの、と付け加えられた小さな紙袋を見れば手のひらサイズのイルカのぬいぐるみが入っていた。


二人の甘酸っぱい記憶が詰まったそれは見ているだけで胸が温かくなってくる。


あああったなぁ、そんな時期が。


待ち合わせ時間の30分前に到着したら、彼氏から寝坊したと連絡が来て結局1時間半程一人で待ちぼうけを食らわされた高校時代の初カレとの初デートが一瞬だけ頭を過った。


みちると椎名のデートはどうやら百点満点だったようだ。


「えー!気を遣わせてごめんねー!わぁ可愛い!イルカだ!アクアリウム、すごい人じゃなかった?アクアリウム人気で予約取れないって聞いたんだけど」


金曜日の帰り間際まで洋服どうしよう、髪型どうしよう、と散々悩んでいたみちるに、三十代の男の人と並んでも可笑しくない格好教えてください!と言われて、ファッション雑誌を見ながらアドバイザー役を全うした歩実へのお礼と、先日の大失態の励ましが込められているであろうそれ。


あの後散々槙に愚痴をぶちまけて、ぐすぐす鼻を啜って店に戻ると、みちるは何も訊かずに笑顔で迎えてくれた。


黙って差し出されたのはコーヒーではなくて、温かい紅茶で、その気遣いが有難くて、また自分の小ささが情けなくなった。


本当に愛されている人間は、必要な時に必要な優しさを差し出せるものだ。


本当に優しい人間は、必要な時に必要な言葉を届けられるものだ。


槙とみちるが居てくれて本当に良かった。


思えば、槙の前であんな風に取り乱して先輩らしくない振る舞いをしたのは初めてだった。


これまでいかに自分が彼の前で頼もしい先輩面をしていたのか思い知らされた。


口にして言ったことなどないが、みんな私に付いてこい、くらいの気概は常に持っていた歩実である。


誰かが二の足を踏む場所なら真っ先に自分が飛び込むタイプだった。


昔の自分と今の自分の落差に愕然とする歩実に、みちるがのんびりと頷く。


彼女周りはいつも時間がゆっくりと流れている。


焦ったり慌てたり今にも走り出しそうな心を落ち着かせてくれる不思議な雰囲気の持ち主なのだ。


「はい。一般の予約はサイトがすぐにいっぱいになっちゃうらしくって・・・あの・・・椎名さんがお仕事のコネでチケットを取ってくださって」


「へー!さすがだねぇ」


湾岸沿いにリニューアルオープンしたアクアリウムは、古臭い水族館のイメージを完全払拭した一大テーマパークのような作りになっており、たびたびニュース番組で取り上げられている。


オープン開始から数か月先まで予約がいっぱいだと報じされていたはずだが、西園寺の法人のコネを有効活用したらしい。


初回のデートで早速人気スポットを押さえるスマートさは脱帽である。


「どう?楽しめた?二人はお店でもよく話してたから、会話に詰まる事ってなかったんじゃない?」


「でも、その・・・お付き合いするってなると、やっぱり緊張しちゃって・・・あ、でも、あの、お洋服!歩実さんに相談して選んだワンピースを着たんですけど・・・褒めて貰えました!」


「ほんとに?良かったぁ。前に友達とミュージカル見に行く時に着てたの見て可愛いなぁって思ってたのよ。パンプス、疲れなかった?ああ、でも椎名さんが疲れさせるほど歩かせないか」


お店ではスニーカーかぺたんこのバレエシューズが基本のみちるなので、長身の椎名に合わせて8センチヒールを履くとなると足の疲れが少し心配ではあったのだが。


「家まで車で迎えに来てくれて」


「完璧ね」


「私以上に私のことを気遣ってくれて・・・なんていうか・・・もう、もう」


「あーはいはい、私の彼氏かっこいいー!ってなったんだ!」


「そそそそうなんですっ!もう、私、椎名さんとお付き合いで来たことで一生分の幸せ使い切っちゃったかも!」


何とも可愛らしい心配に、思わず笑み崩れた。


微笑ましいにも程がある。


こういう素直な女の子が、一番幸せになるように世界は出来ているのだ。


「あーないない。みちるちゃんみたいにいい子はこの先もたっくさん幸せが訪れる。みちるちゃんが私くらいの年になる頃には、素敵な奥様になってるはずよきっと」


「お、奥様とかそんな・・・」


考えた事も無いです!とぶんぶん首を横に振る健気なみちるを遠慮なしに抱きしめたくなった。


椎名の年齢は33歳だと聞いたから、そろそろ結婚を考えたい頃合いのはずだ。


もしかしなくても相手は長期プランを考えているだろう。


幸運の女神は善良な乙女に微笑むように出来ているのだ。


ここにも心を改めて今一度奮起しようとしている大人女おとめが居る事をお忘れなく。


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