第40話 NVD-1

「リモートワーク出来るようになって良かったねぇ」


湯上りの歩実が、暑い暑いと言いながら冷蔵庫から炭酸水を取り出した。


大量の氷をグラスに入れて、ペットボトルの炭酸水を上から注いで、手際よく湯冷ましを用意する彼女の横顔は穏やかそのもの。


こっちの部屋のほうが会社近いし、お風呂広いし、ミスト機能もあるし便利だわぁ、と快適そうにしているくせに、未だに引っ越してこようかな、とは言ってくれない。


彼女が自分の部屋を気に入っていることも、一人の時間を大切にしていることも分かっているし、生活基盤さえ整ったら、この先一生独りでも問題ないと思っている事も知っている。


むしろついこの間までそのつもりで生きて来たのだろうから。


ひとまず今は、彼女がこの家で自由に寛いでくれているという事実に満足することにする。


仕事場から一番近いマンションを選んで本当に良かった。


夜間の緊急呼び出しにも対応できるように、社員のほとんどは近隣に住んでいるのだが、その中でも一番自宅が近いのが槙だった。


半分ほど炭酸水を一気飲みして、もう一度お代わりをグラスに注いで、それを片手にリビングに戻って来た歩実の頬はまだ赤い。


冷たいものを飲みたがるくせに、すぐに冷えた、寒いと言い出すのだ。


氷はやめとけば、と言わないのは、暖を取るために歩実が擦り寄ってくるのが嬉しいからだ。


着瘦せする事を知った今は、尚更この柔らかい身体が恋しい。


さっそく冷えて来た爪先を擦り合わせた歩実が、ノートパソコンを操作する槙の隣にぴとっと張り付いてくる。


隣から腰に回された腕が温かくて気持ちいい。


「椎名さん相当必死だったからな」


メディカルセンターの機密保持の要を担うセキュリティールームは、入退室制限が一番厳しいゾーンだ。


当然機器の持ち込みには制限がある。


そんな特殊な部署なので、リモートワークは不可能だと思われていたのだが、ここ数ヶ月のうちに椎名が発起人となって、システムの切り分けを提案して、安全にリモートワークが行えるネットワークを槙と二人がかりで構築したのだ。


センター長の承認が下りたのは先月のことで、これによって、一部の申請処理やシステム管理は自宅作業にしてよい事になった。


おかげで、歩実と予定を合わせることも出来るようになったので、槙としては大助かりである。


彼がこうも早急にリモートワークのネットワーク構築をしたがった理由はただ一つ。


みちるとの時間が欲しいからだ。


年下の婚約者を溺愛している彼は、室長という肩書き故に休日も夜間も関係なしに出勤を余儀なくされていて、喫茶店勤務のみちるとのんびり過ごせる時間が極端に少ない。


みちるのシフトに合わせて、彼女を自宅に招こうとすればどうしてもリモートワークが必要になってくる。


歩実同様にワーカホリック気味だった椎名の価値観を大きく変えた婚約者の存在は、セキュリティールームの勤務体制にまで影響を及ぼしたのだ。


恋とはげに恐ろしいものである。


盲目的に誰かに堕ちた経験がない槙なので、椎名の熱情には唖然とさせられることも多いが、まあ本人たちが幸せそうなので。


「それ、もう終わる?」


肩に凭れて来た歩実を振り返ってまだ温かい額にキスを一つ。


「んー。椎名さんの承認連絡が来たら終わり」


”approve ”の一言が来たら即座にシステムを落として業務終了してやる。


先に歩実を風呂に入れたのもこの後の時間が長く欲しいからだ。


明日は金曜なので、彼女はこのまま部屋に泊めるつもりにしてある。


多少の寝不足は、まあ許して貰おう。


それでもいつもよりは30分以上寝かせてやれるのだから、さっさと一緒に住みたいと言ってくれればいいのに。


キーボードから離した手で、ソファの座面に上げられた歩実の爪先を握ったらやっぱり冷たかった。


「もう冷えてんじゃん」


足先から冷えていく事は知っていたけれど、それにしたって速すぎだ。


「でもお風呂上りは冷たいもの飲みたくなるでしょ」


あったかいお茶とか無理だわ、と歩実が零した。


それはまあ納得である。


「あっためて欲しい?」


お望みとあらばすぐにでも、としたり顔を向ければ。


「やらしくない方法で」


瞬きをした歩実が冷静に返してきて肩透かしを食らった。


なんだろう、こちらの下心が透けて見えてしまったのだろうか。


「・・・・・・」


「ちょっと、なんでそこで黙るのよ」


「いや、他の方法ってあんま思いつかない」


「・・・あんたがいかに爛れた恋愛ばっかりして来たか、よく分かるわぁ」


「歩実は、俺とする爛れた恋愛はいやなの?」


以外と病みつきになるかもよ、と小さく囁けば。

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