第42話 alias-1

「宗吾ー!ちょっと来て!」


コーヒーのお代わりを入れにキッチンに入ったところで呼ばれて、槙は何事かと声のほうを振り返った。


溜まりに溜まった振替休暇をそろそろ取らないとやばい、と人事総務から指摘されて、上司である椎名と相談してスケジュールを調整して平日の真ん中に二連休を取得することにした。


これまでなら、家で夜通しゲームでもしていたのだが、付き合ってそろそろ3か月になろうかという恋人がいる今は、自宅に籠ってゲームをする、という選択肢はそもそも出て来ない。


歩実に頼んでリモートワークの予定を入れて貰い、彼女の部屋に泊まりに行くことにしたのは、我ながらいい作戦だった。


最初は歩実を自宅に呼び寄せる方向で動いていたのだが、リモートは自宅のほうが便利だと言われて、それもそうかと頷いた。


泊まりに行っていいかと尋ねた時には、歩実は一瞬怪訝な顔になった。


『来てもいいけど私仕事してんのよ?』


『俺もパソコン持って行くし、別にこっちのこと構わなくていいいからさ』


『うち狭いけど?』


8畳のワンルームは、綺麗に整頓されているが槙の暮らすマンションよりかなり手狭だ。


『ならやっぱりこっち来る?』


『いやー・・・宗吾の部屋広くて落ち着かないのよね』


『んじゃあやっぱり俺がこっち来ることになるだろ』


槙の部屋でリモートワークをするか、歩実の部屋でリモートワークをするか、二つに一つだと選択を迫れば、結局は彼女の方が折れた。


『・・・・・・・・・はい・・・じゃあ、どうぞ』


翌週から大掛かりなプロジェクトが予定されていて、スケジュールが詰まって来るのでその前に二人の時間を持っておきたかったのだ。


本格的にプロジェクトが始動すれば夜間対応も増えるし、同じ社内といえどもっと顔を合わせる機会は少なくなってしまう。


これまでの交際相手は、時間が取れないというと途端不機嫌を露わにして来た。


分かりやすい反応はそれがパフォーマンスだとしても可愛かったし、会えない間の分も・・・と色々楽しんで満たされてきた。


同じように歩実が拗ねる前に、と思ってこうして家に来たのだが、彼女の反応は付き合う前とほとんど変わりない。


そりゃあ多少は甘えてくれるようになったけれど、それでも歴代の彼女の半分以下。


二人きりで居ても槙が仕掛けない限りはそういう雰囲気になることもほとんど無い。


元々自分は淡泊なほうだと思っていたが、自分よりももっと淡泊な彼女を好きになるとは思ってもみなかった。


だから、こんな風に名前で呼ばれるだけでもテンションが上がってしまう。


「なに、どしたの?」


「これ、このキャップ閉めて、急いで!」


見ると、折り畳みテーブルの上にマニキュアの小瓶を並べた歩実が真剣な表情で訴えてくる。


思いのほか仕事が捗って(槙が余計なちょっかいを掛けずに大人しくして居た為)3時間ほど早く仕事を切り上げた彼女は、その頃オンラインゲームをしていた槙の邪魔にならないようにとリモートワーク用の折り畳みテーブルのところで何かを始めていたことは知っていたのだが。


マニキュアの瓶は乾燥が命取りだと何人か前の元カノから聞かされた気がする。


言われた通りパールベージュのマニキュアの瓶の蓋をしっかり閉めてやる。


「マニキュアなんて珍しいな」


総合職だった頃の彼女はジェルネイルをしていて、後輩を連れてお馴染みの店にしょっちゅう通っていた。


どうして覚えているのかと言えば、毎回飲み会のたびに、今月の爪はこれでーす!とお披露目されていたからだ。


「みちるちゃんのところで働いてた時には飲食だったからネイルNGだったでしょ?だから、もうネイルはいっかーって思ってたんだけど、久しぶりに塗ってみようかなって思って。ゲーム終わったの?声掛けて良いか分かんなかったから」


早くネイルを乾かすためか両手をぶらぶら振りながら歩実が尋ねてくる。


ここが彼女の部屋だからか、槙の部屋で過ごす時よりさらに表情が柔らかい。


仕事の歩実を邪魔しないために、手持ち無沙汰防止で適当に始めたオンラインゲームは、途中で死のうが逃げようが構わないのに。


「声掛けられて駄目な時なんて無いけど」


「あ、そうなの?ゲームやんないからよくわかんないのよね。あ、コーヒー私にも入れて来て」


「それ、乾くまで動けないんだろ?」


「そーよ。だから、ちょっかい掛けてきたら殴るからね」


結構真顔で言われて、我慢しきれずに噴き出した。


「殴るって・・・殴ったらネイル駄目になるだろそれ」


「じゃ、じゃあ蹴る」


「・・・・・・ちょっかいってさぁ、どこまでならオッケーなの?」


浮かんだ疑問をそのまま口に出せば、歩実が途端難しい顔になった。


指先を使うことはまあNGだとしても、出来ることはいくらだってある。


なんなら、歩実は指一本動かさずにいたって構わないのだ。


槙の好きにさせてくれさえすれば。



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