第25話 asset-1
西園寺メディカルセンターへデリバリーを頼まれたのは初めてのことだった。
依頼主は椎名。
会議があるので、コーヒーを6つ届けて欲しいとのことだった。
歩実が椿亭で働き始めて間もなく、常連客の高齢女性が腰を痛めてお店に通えなくて残念がっていると別の常連客たちが話をしているのを聞いて、マスターにデリバリーの提案を持ちかけた。
駅から離れているお店は、徒歩圏内の客がほとんどなのでコーヒーを届けに行く事に不便はない。
一件のデリバリーが口コミで広がって、お店に行けない高齢者や、子供が小さいママたちからちょこちょこオーダーが入った。
が、不思議なことに目の前の企業からの依頼はゼロだったのだ。
店の規模を知っている客が気を遣って遠慮していた可能性は大いにあるのだが。
そんなわけで、紙カップが6つ入ったケースをぶら下げて受付まで行って、依頼主であるセキュリティチームの椎名の名前を出すと、入室制限が厳しい区域のためここから先は受付嬢が届けてくれるとのことだった。
歩実としてもそのつもりだったのでよろしくお願いします、と丁寧に頭を下げて受付を離れる。
二日後に迫った面接を思うと緊張しないわけでは無いが、もう此処まで来たらぶつかるよりほかにない。
貰ったチャンスに全力で挑むだけである。
ティータイムが近づいているので、そろそろ常連客たちが集まり始める頃合いだ。
このエプロンを外してまた一人のお客に戻ることになるのか、それとも看板おばちゃんを目指し続ける事になるのかは、神のみぞ知る。
予想以上に落ち着けている理由は、心の安定剤を手に入れたからだ。
まだ本人には伝えられていないけれど。
面接の結果が出るまで告白の返事は待って欲しいとお願いすれば、槙はあっさり頷いてくれた。
というのも、セキュリティチームが繁忙期に入っていて時間が取れないせいもある。
歩実としては助かったような、そうでもないような、何とも言えない気持ちだ。
広々とした敷地は清掃が行き届いていて彩光が工夫された大きな施設はどこかしこも眩しい位だ。
ここで働けますように、とちょっとだけ強めに祈りつつエントランスを抜けたところで、見覚えのあるサラリーマンが前から歩いて来る事に気づいた。
あ、と思った矢先、向こうも歩実に気づいて足を止める。
「・・・木下さん、ご無沙汰しております」
以前勤めていた会社で歩実が担当していたカフェチェーンの営業が、一気に表情を強張らせた。
歩実が左遷されるきっかけになったクレームを入れた企業の担当者だったのだ。
歩実とは数年来の顔馴染みで会社の飲み会に呼んで貰った事もある、いい関係を築けていたと思っていた相手である。
気まずいのはお互い様だがここで出会ってしまった以上素通りも出来ない。
ぎこちない笑顔の後で、木下が口を開いた。
「お・・・お久しぶりです・・・菊池さん・・・あの・・・退職されたって聞いて・・・驚きました」
「あ・・・はい・・・その節はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。きちんとしたご挨拶も出来ないうちに、急にその・・・退職が決まりまして」
「そう・・・だったんですか・・・あの・・・・・・ずっと気になってたんです・・・うちが上げたクレームがかなり問題になったって噂を聞いて・・・菊池さんにはよくフォローして貰ってたのに・・・社内での連携が上手く行っていなくて・・・上司を説得しきれず・・・すみません」
申し訳なさそうに頭を下げる木下に、その倍頭を下げて違いますと答えた。
「いえそんな!完全にこちらがご迷惑をおかけしてしまったので!力不足で申し訳ありませんでした!」
「そんなことないです。あの後、新しい担当さんが課長さんと一緒に挨拶に来られて・・・・・・どれくらい菊池さんが細やかなフォローをして下さっていたのかよく分かりました。残されていた引き継ぎ書もちらっと見せて頂いたんですが本当に・・・誠意を尽くしてくださっていたんだなって・・・・・・今更ですよね」
「いえ・・・いえ、そんな」
先輩社員から引き継いだ最初の大口取引先だった事もあってかなり気合を入れて情報を集めて精査したことをよく覚えている。
出荷センターへの出向辞令が下って真っ先にした事は、残された企業を任される後輩への引継ぎだった。
担当の性格や好み、連絡の取りやすい時間帯や嗜好、注意事項までありったけの情報を詰め込んで渡して来たが役に立っていたようだ。
遠回りでもちゃんと自分の頑張りが届いていたことが何より嬉しい。
がむしゃら過ぎたあの頃が、ちょっとだけ眩しく見える。
「転職 ・・・されたんですか?体調を崩して辞められたと聞いていたので、気になっていたんです」
西園寺メディカルセンターの敷地内で顔を合わせればまあそういう風に見えるだろう。
店を出る時エプロンも外してきてしまったので。
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