この恋には溺れない ~先輩の仮面を外したら一気に後輩と立場が逆転しました~

宇月朋花

第1話 module-1

人生の転機は必ず訪れる。


それは大抵が突然で、嵐のように予告なく押し寄せて来るものだ。


あの時ああしていればよかった、と気づくのはいつだって全てが終わってしまった後。


後悔しない人生なんて有り得ないのだから、次こそは押し寄せて来た波に飲み込まれて何もかもを失くしてしまわないように、せいぜい準備するより他にない。


そして身構えて頑なになって疲弊しきった頃に、次の嵐はやって来るのだ。






・・・・・・・・・・・・・・・・





ようやく耳に馴染んだカウベルの音に笑顔を浮かべて店の入り口を振り返る。


レトロな店の趣とは異なって【椿亭】のエプロンはシンプルなダークオリーブだ。


白いフリルのエプロンじゃなくて本当に良かった。


もしそれが制服だったならば気恥ずかしくていらっしゃいませの笑顔を作れそうになかった。


看板娘であるみちるならともかく、三十路の大台に乗っかったの菊池歩実きくちあゆみ にはフリルエプロンはなかなか厳しい。


「いらっしゃいま・・・・・・・・・」


「あれー?ゼロ円のスマイル忘れてますよー?」


嫌味ったらしい口調とミスマッチな爽やかな笑顔がセットの顔馴染み槙宗吾まきしゅうごをウェルカムではなく、おととい来やがれの険悪な表情で睨みつけて歩実はぶすったれた表情で最後の言葉をどうにか言い切った。


「・・・せ・・・・・・空いているお席へどうぞ・・・・・・今日はお一人なんですね」


「うーわ塩対応だわー・・・なに?機嫌悪いの?」


あれ、俺なんかしましたっけ?とケロリと言い返す大学時代の後輩の背中を遠慮なしに蹴り飛ばせないことが本気で悔しい。


店内に客が居なかったなら、問答無用で肘鉄くらい食らわせてやるのに。


「・・・・・・あんたがしょっちゅう来るからよっ」


「売り上げ貢献してるんですよー。歩実さんがクビにならないように。ほら、一応後輩だから俺」


気が利くでしょ、と軽やかに笑った憎らしい笑顔をメニュー表ではたいてやりたい。


が、当然彼は大切なお客様の一人なのでそんなことは出来ない。


今更ながら、この面倒な後輩の職場の近くで仕事を始めてしまったことが悔やまれる。


本厄はまだ先のはずなのにせっかちな神様が先に厄を落として来たのだろうか。


だとしたら晴れ渡った空を見上げて物申したい。


神様、私なんかした!?


「クラブハウスサンドのセット、テイクアウトで。トールのブレンドも一緒に。あ、一杯はこっちで飲むから」


「・・・なに、忙しいの?」


椿亭から徒歩3分の距離にある西園寺メディカルセンターのセキュリティ―チームに勤めるシステムエンジニアの槙は、忙しいとこうして片手で食べられるメニューをテイクアウトする。


歩実が店で働くようになってから、デリバリーも始めたので連絡を貰えれば配達するのだが、槙は息抜きがてらこちらまで来る事が多かった。


「んー。ちょっと急ぎの仕事が入ってて。今日は看板娘ちゃんは休み?」


4年前に早期退職をしたマスターが趣味で始めた椿亭は、カウンター席と、テーブル席が二つのこぢんまりとした喫茶店だ。


西園寺メディカルセンターが出来るまでは畑と田んぼしかなかったこの辺りが少しずつ活気づいて来たのは数年前から。


住宅街の一角にひっそりと店を構える椿亭は、利益度外視の完全趣味経営なので、やって来るのは近隣住民がほとんどだ。


入り組んだ細道の先にある看板も出さない喫茶店は、よく言えば隠れ家風である。


こんな場所にある喫茶店だからこそ、知り合いに会うわけがないと高を括っていた自分が情けない。


狭い店内をぐるりと見回して槙が尋ねて来た。


純粋無垢を絵に描いたような擦れていない看板娘は、店主である叔父と常連客たちから大層可愛がられている。


椿亭で働き始める前からの知り合いでもある歩実は、みちるを妹のように思っているので、そんじょそこいらの男にはやりたくない。


みちるの血縁者であることが一目でわかるお人好しなマスターに代わって、勝手にみちるの防御壁を務めている歩実としては、いくら大学時代の後輩だろうと軽い気持ちで彼女に近づいて欲しくは無かった。


だっていまみちるは、見ていて微笑ましいくらい可愛らしい片思いをしているのだから。


「あんたもみちるちゃん狙いか!」


吐いて捨てるように言い返せば、眉を持ち上げた槙が肩をすくめた。


「ちげーよ。あの子は可愛いけど俺の好みじゃない」


「好みじゃないけどあんたの元カノにちょっと似てますけど!?」


「いやだからそれは・・・」


「椎名さんは、今日は一緒じゃないのね」


みちるが半年ほどずっと片思いを続けている槙の先輩は、この店の常連客の一人だ。


槙とは比べ物にならないくらい穏やかで紳士的な好人物である。


女性が放っておかない容姿と物腰を兼ね備えた彼は間違いなくライバルも多い。


みちるのシフトが休みの時に彼が来たら、メッセージで連絡をしてやろうと思っていたのだが。


「・・・・・・歩実さんも椎名さん推しなの?」


「いやいやいや。無理でしょそれは。あれは鑑賞用でしょどう見たって」


三十路で定職を失った自分が思いを寄せてどうこうなる相手ではないし、そもそもそういう目で見ていない。


「ゼミで一緒だった石倉さんにちょっと雰囲気似てるでしょ?」


「ああ・・・まあ、言われてみれば」


「結構楽しそうに付き合ってましたけどねあなた」


「昔のこと引っ張り出すんじゃないわよ!」


付き合いが長いとお互いの元彼や元カノを知っているので、まあこういう話題になることもある。


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