第48話 EAP-FAST-2

総合職をしていた頃は、朝からがっつり髪を巻いて、スキンケアにも時間をかけて、一日歩き回っても崩れないメイクを心がけていた。


当然下地にも気を遣ってクッションファンデはがっつり塗って、ハイライトとシェーディングも入れて営業受けのよいパッキリ顔を作っていた。


出来る感が滲み出ている強気な女だったと思う。


仕事を辞めて、椿亭で働くようになって、メイクに掛ける時間が半分以下になって、どんどん自分の気持ちも緩んで行った。


今では平気で槙の前でスッピンを晒しているし、なんならメイク中の顔を見られても構わない。


肩の力を抜いたら、今の自分を受け入れることが出来て、むしろあれこれ塗って補おうとする気持ちが薄れてしまった。


メディカルセンターに勤めるようになってからも薄化粧は相変わらずで、アイメイクはするようになったけれど、昔ほど時間をかけたりはしていない。


だから、こんな風に外向きの自分の顔を作るのは随分久しぶりだ。


完全に毛穴レスのツルスベ肌は、昔の自分の必需品だったけれど、今は違う。


多少凹凸があったってシミがあったっていいじゃないか、と思えて来たのだ。


肌荒れだけは頂けないので、食生活には気を付けているけれど、昔から不思議とニキビや吹き出物とは無縁なので、助かっていた。


「せっかく華やかにして貰ったから、飲んで帰る?まだ早いし・・・たまにはいい店行こうか」


歩くの辛いなら、タクシー拾おうか?と問いかけられて、歩実は平気と笑顔を返した。


「レガロマーレのバーなら、この時間もう開いてるから」


「・・・めちゃめちゃデートスポットじゃん・・・どこの誰と行ったの?」


ジト目を向けてくる槙の腕を軽く引いて、意味深に微笑む。


「失恋した女友達と」


こうなったらいい酒飲んで嫌なことは忘れよう、と涙目の友人を引っ張って足を踏み入れたラウンジバーは、それはもうラグジュアリーな空間で、緊張のあまり友人の涙はあっという間に引っ込んでしまった。


それはそれは高級なカクテルを飲んで、万札を置いて帰ったのは20代のいい思い出である。


歩実の言葉に槙が眉を上げて、耳たぶにキスをして来た。


くすぐったい触れ合いに笑い声をあげる。


「ねえ、今と昔、どっちの私がいい?」


彼氏の意見で洋服やメイクが変わる女ではないのだけれど、一応参考までにと尋ねてみれば。


「・・・・・・歩実さんの機嫌がいいほうで」


なんとも微妙な返事が返って来た。


「なにそれ・・・張り合いが無い」


「だってもう寝起き見てるし・・・・・・化粧途中の微妙な顔も・・・イテっ」


何をサラッと失礼発言かましてくれているのかこの男は。


べしりと花束の入った紙袋を持っていないほうの手で槙の腕を叩いてやった。


「もうちょっと遠慮しような?私、彼女だよ」


「彼女だから、好きにしてくれたらいいんだけど・・・・・・俺べつに歩実にこうなって欲しいとか、ああなって欲しいとか希望ないから。たぶん、もう一通り見せたでしょ、俺には」


思えば、一番かっこいいところから、一番かっこ悪いところまで見事に一周している。


他の誰もしらない菊池歩実を、槙だけは知っているのだ。


「見せるつもり無かったけどね」


本当はずっと凛々しくて格好いい先輩で居続けたかった。


だってそうすることに、菊池歩実の存在意義はあったのだから。


みんなが憧れる先輩でいたかったし、誰もが背中を追いかけたくなる社会人でいたかった。


でも、必死になればなるほど、現実は憧れから遠ざかっていって、最後は自分で自分に背を向ける羽目になった。


みっともない自分を知って、初めて折れる心を覚えた。


どれも必要な道筋だったのだ。


「俺は見せてくれて嬉しかったよ。ああやっとこの人歩くこと覚えたんだって思った。ずっと走ってたからさ、前だけ見て」


槙が伸ばした手で歩実の空っぽの手を捕まえに来た。


優しく擽られて、指の隙間を撫でられるとそれだけで心臓が跳ねる。


彼の温もりと、仕草を、細胞の全部がはっきりと覚えてしまっているのだ。


「・・・・・・・・・」


「一周したら、一番居心地いい自分がどれか、もう分かるんじゃない?」


静かに、穏やかに、槙が視線を向けてくる。


窘めるというよりは、包み込むような眼差しだった。


いつも、おやすみを告げる直前に彼が見せる表情に、よく似ている。


見ているだけで優しい気持ちになれる、そんな笑顔だった。


「・・・・・・・・・」


「俺は、どれでも大丈夫。もうパンクさせない自信もあるし」


久しぶりにその単語を聞いた。


「・・・・・・パンク修理得意なんじゃなかった?」


初めて彼が歩実への気持ちを零した夜に、確かに槙はそう言ったのだ。


パンク修理は得意だから平気だ、と。


「得意だけど、あんなズタボロになったところは、何べんも見たくねぇわ」


目を伏せて息を吐くその顔を見上げて、槙が向けてくれている愛情の大きさに、目元が潤んだ。


「・・・・・・私も、もうパンクしないと思う」


ちゃんと歩き方を覚えたし、自分との向き合い方を覚えたから。


「うん」


頷いた彼の顔を見上げて、勇気を奮い立たせる。


「・・・・・・今、一番居心地いい自分は・・・・・・宗吾と一緒に居る時だわ」


意を決して告げたセリフへの返事は、軽やかな唇へのキスだった。

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